そのお辞《ことば》次第で、私もう断然|何方《どちら》に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶《どう》か歯に衣《きぬ》を着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜《よろし》う御座いますか。
 今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存《ごぞんじ》でゐらつしやるのです。従来《これまで》も随分|絮《くど》く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌《きら》ひ遊ばして、些《ちよつと》でも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌《きら》はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻《はぢ》を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜《よ》いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子《をんな》にしては極未練の無い方で、手短《てみじか》に一か八《ばち》か決して了ふ側《がは》なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為《なぜ》かう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。
 ですから、唯その胸の中《うち》だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟《つまり》貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方《いたしかた》も有りませんが、そんなに為《さ》れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何《いか》にも不敏《ふびん》な者だと、設《たと》ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。
 御自分が恋《こひし》く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差《かはり》は無いで御座いませう。増《ま》して、貴方、片思《かたおもひ》に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束《ふつつか》な者でも、同じに生れた人間|一人《いちにん》が、貴方の為には全《まる》で奴隷《どれい》のやうに成つて、しかも今貴方のお辞《ことば》を一言《ひとこと》聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処《そこ》をお考へ遊ばしたら、如何《いか》に好かん奴であらうとも、雫《しづく》ぐらゐの情《なさけ》は懸けて遣《や》らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
 私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞《ことば》を、唯|一言《ひとこと》で宜いのですから、今までのお馴染効《なじみがひ》にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」
 終に近く益す顫《ふる》へる声は、竟《つひ》に平生《へいぜい》の調《ちよう》をさへ失ひて聞えぬ。彼は正《まさし》くその一言《いちごん》の為には幾千円の公正証書を挙げて反古《ほぐ》に為んも、なかなか吝《をし》からぬ気色を帯びて逼《せま》れり。息は凝《こ》り、面《おもて》は打蒼《うちあを》みて、その袖《そで》よりは劒《つるぎ》を出《いだ》さんか、その心よりは笑《ゑみ》を出《いだ》さんか、と胸跳《むねをど》らせて片時《へんじ》も苦く待つなりき。
 切なりと謂はば実《げ》に極《きは》めて切なる、可憐《しをら》しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他《た》の己《おのれ》を愛するの故《ゆゑ》を以《も》て直《ただ》ちに蛇蝎《だかつ》に親まんや、と却《かへ》りてその執念をば難堪《たへがた》く浅ましと思へるなり。
 されど又情として※[#「※」は「がんだれ+萬」、382−9]《はげし》く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩《うちなや》める眉《まゆ》を強《しひ》て披《ひら》かせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言《いちごん》?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰《おつしや》つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他《ひと》にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上《にげこうじよう》を有仰《おつしや》らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些《ちよつ》と有仰《おつしや》つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶《あいさつ》を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程|難《むづかし》い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜《よろし》う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召《おぼしめし》は実に難有《ありがた》いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭《くちさき》ばかりでは私|可厭《いや》で御座います。貴方もあれ程|確《たしか》に有仰《おつしや》つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
 驚破《すはや》、障子を推開《おしひら》きて、貫一は露けき庭に躍《をど》り下りぬ。つとその迹《あと》に顕《あらは》れたる満枝の面《おもて》は、斜《ななめ》に葉越《はごし》の月の冷《つめた》き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。

     第 八 章

 家の内には己《おのれ》と老婢《ろうひ》との外《ほか》に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬《ののし》る声の聞ゆるは甚《はなは》だ謂無《いはれな》し、我《われ》或《あるひ》は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕《まくら》せる頭《かしら》を擡《もた》げて耳を澄せり。
 その声は急に噪《さわがし》く、相争《あひあらそ》ふ気勢《けはひ》さへして、はたはたと紙門《ふすま》を犇《ひしめ》かすは、愈《いよい》よ怪《あや》しと夜着《よぎ》排却《はねの》けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉《ひとし》く、二人の女の姿は貫一が目前《めさき》に転《まろ》び出《い》でぬ。
 苛《さいな》まれしと見ゆる方《かた》の髪は浮藻《うきも》の如く乱れて、着たるコートは雫《しづく》するばかり雨に濡《ぬ》れたり。その人は起上り様《さま》に男の顔を見て、嬉《うれ》しや、可懐《なつか》しやと心も空《そら》なる気色《けしき》。
「貫一《かんいつ》さん」と匐《は》ひ寄らんとするを、薄色魚子《うすいろななこ》の羽織着て、夜会結《やかいむすび》に為《し》たる後姿《うしろすがた》の女は躍《をど》り被《かか》つて引据《ひきすう》れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
 拯《すくひ》を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生《しちしよう》までその願は聴かじと郤《しりぞ》けたる満枝の、我の辛《つら》さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊《なほあきた》らで我が前に責むるかと、貫一は怺《こら》へかねて顫《ふる》ひゐたり。満枝は縦《ほしいま》まに宮を据《とら》へて些《ちと》も動かせず、徐《しづか》に貫一を見返りて、
「間《はざま》さん、貴方《あなた》のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
 頸髪取《えりがみと》つて宮が面《おもて》を引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私《わたし》は悔《くやし》う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
「私《わたくし》奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
 彼は足擦《あしずり》して叫びぬ。満枝は直《ただ》ちに推伏《おしふ》せて、
「ええ、聒《やかまし》い! 貫一《かんいち》さんは其処《そこ》に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在《いで》なさい。
 間さん、私想ふのですね、究竟《つまり》かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言《こと》は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所《よそ》へ嫁に入つて了《しま》つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余《あんま》り男らしくなくてお在《いで》なさる。それは如何《いか》にお可愛《かはい》いのか存じませんけれど、一旦|愛相《あいそ》を尽《つか》して迯《に》げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々《ぐづぐづ》してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺《さしころ》して了《しま》ふのです」
 宮は跂返《はねかへ》さんと為《せ》しが、又|抑《おさ》へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰《おつしや》いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為《なぜ》こんな淫乱《いんらん》の人非人《にんぴにん》を阿容《おめおめ》活《い》けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分《いちぶん》が立たんで御座いませう。何為《なぜ》成敗は遊ばしません。さあ、私|決《け》してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。
 間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒《いざ》と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損《しそん》じの無いやうに、私|好《よ》い刃物《きれもの》をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
 彼の懐《ふところ》を出でたるは蝋塗《ろぬり》の晃《きらめ》く一口《いつこう》の短刀なり。貫一はその殺気に撲《うた》れて一指をも得動かさず、空《むなし》く眼《まなこ》を輝《かがやか》して満枝の面《おもて》を睨《にら》みたり。宮ははや気死せるか、推伏《おしふ》せられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭《のど》なり胸なり、ぐつと一突《ひとつき》に遣《や》つてお了《しま》ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々《ぐづぐづ》してゐらつしやるのです。刀の持様《もちやう》さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
 と片手ながらに一揮《ひとふり》揮《ふ》れば、鞘《さや》は発矢《はつし》と飛散つて、電光|袂《たもと》を廻《めぐ》る白刃《しらは》の影は、忽《たちま》ち飜《ひるがへ》つて貫一が面上三寸の処に落来《おちきた》れり。
「これで突けば可《よ》いのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未《ま》だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些《ちよつ》と御覧あそばせな」
 言下《ごんか》に勿焉《こつえん》と消えし刃《やいば》
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