から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣《あが》つて気が違つたのですから、元の正気に復《なほ》してお還し下さいまし」
彼は擦寄《すりよ》り、擦寄りて貫一の身近に逼《せま》れり。浅ましく心苦《こころくるし》かりけれど迯《に》ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩《おほ》へる心地しつつ、貫一は身を側《そば》め側め居たり。満枝は猶《なほ》も寄添はまほしき風情《ふぜい》にて、
「就きましては、私|一言《いちごん》貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁《ちやん》と有仰《おつしや》つてお聞せ下さいまし、宜《よろし》う御座いますか」
「何ですか」
「なんですかでは可厭《いや》です、宜《よろし》いと截然《きつぱり》有仰《おつしや》つて下さい。さあ、さあ、貴方」
「けれども……」
「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎《いつ》も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜《よろし》いのですから」
「勿論《もちろん》答へます。それは当然《あたりまへ》の事ぢやないですか」
「それが当然《あたりまへ》でなく、極打明けて少しも裹《つつ》まずに言つて戴きたいのですから」
善《よし》と貫一は頷《うなづ》きつ。
「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方《あなた》は私を※[#「※」は「勞/心」、374−8]《うるさ》い奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏《つきまと》つてゐるのは、自分の口から箇様《かよう》な事を申すのも、甚《はなは》だ可笑《をかし》いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何《いか》に思つてをりましたところが、元来《もともと》私と云ふ者を嫌《きら》ひ抜いて御在《おいで》なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画《かずか》くよりも儚《はかな》きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、374−13]《かな》ふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦《あきら》められんので御座います。
こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存《ごぞんじ》でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解《わかり》に成つてゐるで御座いませう」
「さうですな……そりや或《あるひ》はさうかも知れませんけれど……」
「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或《あるひ》はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に※[#「※」は「勞/心」、375−4]《うるさ》がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を※[#「※」は「勞/心」、375−4]《うるさ》いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠《しつこ》くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在《いで》のでは御座いませんか」
「それはさう謂へばそんなものです」
「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関《かかは》らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」
「さう」
「で、私|従来《これまで》に色々申上げた事が御座いましたけれど、些《ちよつ》とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟《りくつ》から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決《け》して貴方の有仰《おつしや》るやうな道に外《はづ》れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処《そこ》に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟《つまり》貴方がそれを口実にして遁《に》げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程|儀剛《ぎごは》な片意地なところもお有《あん》なすつて、色恋の事なんぞには貪着《とんちやく》を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固《がんこ》なのを私|歯痒《はがゆ》いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」
と言ひも敢《あ》へず煙管《きせる》を取りて、彼は貫一の横膝《よこひざ》をば或る念力《ねんりき》強く痛《したた》か推したり。
「何を作《なさ》るのです!」
払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸《さいはひ》に満枝は又打ち被《かか》る。
こは何事と駭《おどろ》ける貫一は、身を避《さく》る暇《いとま》もあらず三つ四つ撃れしが、遂《つひ》に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯《うつぷし》に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股《もも》の辺《あたり》に咬付《かみつ》いたり。怪《けし》からぬ女|哉《かな》、と怒《いかり》の余に手暴《てあら》く捩放《ねぢはな》せば、なほ辛《から》くも縋《すが》れるままに面《おもて》を擦付《すりつ》けて咽泣《むせびなき》に泣くなりき。
貫一は唯不思議の為体《ていたらく》に呆《あき》れ惑ひて言《ことば》も出《い》でず、漸《やうや》く泣ゐる彼を推斥《おしの》けんと為たれど、膠《にかは》の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿《うるほひ》は単衣《ひとへ》を透《とほ》して、この難面《つれな》き人の膚《はだへ》に沁《し》みぬ。
捨置かば如何《いか》に募らんも知らずと、貫一は用捨無く※[#「※」は「(夕+匕)/手」、376−12]放《もぎはな》して、起たんと為るを、彼は虚《すか》さず※[#「※」は「夕/寅」、376−12]《まつは》りて、又泣顔を擦付《すりつく》れば、怺《こら》へかねたる声を励す貫一、
「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」
「…………」
「さうして早くお帰りなさい」
「帰りません!」
「帰らん? 帰らんけりや宜《よろし》い。もう明日《あす》からは貴方のここへ足蹈《あしぶみ》の出来んやうに為て了《しま》ふから、さうお思ひなさい」
「私死んでも参ります!」
「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛《はふ》つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」
満枝は始て涙に沾《うるほ》へる目を挙げたり。
「はあ、お話し下さい」
「…………」
「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」
貫一は歯を鳴して急上《せきあ》げたり。
「貴方は……実に……驚入《おどろきい》つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」
「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」
「怪《けし》からん!」
彼は憎き女の頬桁《ほほげた》をば撃つて撃つて打割《うちわ》る能《あた》はざるを憾《うらみ》と為《す》なるべし。
「定《さだめ》てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決《け》してさやうでは御座いませんです」
「そんなら何《なん》ですか」
「往日《いつぞや》もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐《かたき》も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方《かた》に惚《ほ》れて騒ぐ分は、一向|差支《さしつかへ》の無い独身《ひとりみ》も同じので御座います。
間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊《ごぜんたき》に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰《おつしや》つて下さいまし。私|豊《とよ》の手伝でも致して、此方《こなた》に一生奉公を致します。
貴方は大方赤樫に言ふと有仰《おつしや》つたら、震へ上つて私が怖《こは》がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧《むし》ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧《く》れるで御座いませう」
貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然《しか》こそは呆《あき》れつらんと思へば、
「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠《とほざ》けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾《むだ》な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私|些《ちよつ》ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召《おぼしめ》すものなら、物は試《ためし》で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。
私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主《ぬし》有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引《あひびき》してゐらつしやる事を触散《ふれちら》しますから、それで何方《どちら》が余計迷惑するか、比較事《くらべつこ》を致しませう。如何《いかが》で御座います」
「男勝《をとこまさ》りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」
「何で御座います?」
「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直《ただ》ちに逢引《あひびき》ですか。又|妙齢《としごろ》の女でさへあれば、必ず主有るに極《きま》つてゐるのですか。浅膚《あさはか》な邪推とは言ひながら、人を誣《し》ふるも太甚《はなはだし》い! 失敬千万な、気を着けて口をお利《き》きなさい」
「間さん、貴方、些《ちよつ》と此方《こちら》をお向きなさい」
手を取りて引けば、振釈《ふりほど》き、
「ええ、もう貴方は」
「お※[#「※」は「勞/心」、379−9]《うるさ》いでせう」
「勿論《もちろん》」
「私|向後《これから》もつと、もつともつと※[#「※」は「勞/心」、379−11]くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰《おつしや》つたので御座います、浅膚《あさはか》な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利《き》き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為《なぜ》立派に、その通だ。情婦《をんな》が有るのがどうしたと、かう打付《ぶつつ》けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多《いくら》さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚《はばか》つて、さう向《むき》に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。
私実を申しませうか、箇様《かよう》なので御座います。貴方が余所外《よそほか》に未だ何百人愛してゐらつしやる方《かた》が有りませうとも、それで愛相《あいそ》を尽《つか》して、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡《りようけん》ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩《もら》しましたところで、※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、380−2]《かな》はない願が※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」]ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程|卑怯《ひきよう》な女ではない積《つもり》で御座います。
世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些《ほん》のその場の憎まれ口で、私|決《け》してそんな心は微塵《みじん》も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫《わび》を致します」
満枝は惜まず身を下《くだ》して、彼の前に頭《かしら》を低《さ》ぐる可憐《しをら》しさよ。貫一は如何《いか》にとも為《す》る能はずして、窃《ひそか》に首《かうべ》を掻《か》いたり。
「就《つ》きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来《これまで》の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。
前へ
次へ
全71ページ中55ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング