とを置きて悄々《すごすご》還りぬ。
程無く貫一も焦げたる袂《たもと》を垂れて出行《いでゆ》けり。
彼はこの情緒の劇《はげし》く紛乱せるに際して、可煩《わづらはし》き満枝に※[#「※」は「夕/寅」、366−13]《まつは》らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去《かへりさ》らん後までは決《け》して還らじと心を定めて、既に所在《ありか》を知られたる碁会所を立出《たちい》でしが、いよいよ指して行くべき方《かた》は有らず。はや正午と云ふに未《いま》だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何《いか》に為《せ》んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然《ぼうぼうぜん》として彷徨《さまよ》へり。
初夏の日は長かりけれど、纔《わづか》に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆《ほとん》ど惜き夢の間に昏《く》れて、折から雨も霽《は》れたれば、好者《すきもの》どもも終《つひ》に碁子《きし》を歛《をさ》めて、惣立《そうだち》に帰るをあたかも送らんとする主の忙々《いそがはし》く燈《ひ》ともす比《ころ》なり、貫一の姿は始て我家の門《かど》に顕《あらは》れぬ。
彼は内に入《い》るより、
「飯を、飯を!」と婢《をんな》を叱《しつ》して、颯《さ》と奥の間の紙門《ふすま》を排《ひら》けば、何ぞ図らん燈火《ともしび》の前に人の影在り。
彼は立てるままに目を※[#「※」は「目+登」、367−6]《みは》りつ。されど、その影は後向《うしろむき》に居て動かんとも為《せ》ず。満枝は未《いま》だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚《なほ》も殊更《ことさら》に見向かぬを、此方《こなた》もわざと言《ことば》を掛けずして子亭《はなれ》に入り、豊を呼びて衣を更《か》へ、膳《ぜん》をも其処《そこ》に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来《いりく》べき満枝の食事を了《をは》るまでも来ざるなりき。却《かへ》りて仕合好《しあはせよ》しと、貫一は打労《うちつか》れたる身を暢《のびや》かに、障子の月影に肱枕《ひぢまくら》して、姑《しばら》く喫烟《きつえん》に耽《ふけ》りたり。
敢《あへ》て恋しとにはあらねど、苦しげに羸《やつ》れたる宮が面影《おもかげ》の幻は、頭《かしら》を回《めぐ》れる一蚊《ひとつか》の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出《おもひい》でらるれば、なほ往きかねて那辺《そこら》に忍ばずやと、風の音にも幾度《いくたび》か頭《かしら》を挙げし貫一は、婆娑《ばさ》として障子に揺《ゆ》るる竹の影を疑へり。
宮は何時《いつ》までここに在らん、我は例の孤《ひとり》なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以《も》て容《ゆる》さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又|怪《あやし》きまでに貫一は佗《わびし》くて、その釈《と》き難き怨《うらみ》に加ふるに、或種の哀《あはれ》に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺《うちなが》めて、他《ひと》の憎しとよりは転《うた》た自《みづから》を悲しと思続けぬ。彼は竟《つひ》に堪へかねたる気色《けしき》にて障子を推啓《おしあく》れば、涼《すずし》き空に懸れる片割月《かたわれづき》は真向《まむき》に彼の面《おもて》に照りて、彼の愁ふる眼《まなこ》は又|痛《したた》かにその光を望めり。
「間さん」
居たるを忘れし人の可疎《うとまし》き声に見返れば、はや背後《うしろ》に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑《ゑみ》を帯びざる無き目の秋波《しほ》も乾《かわ》き、顔色などは殊《こと》に槁《か》れて、などかくは浅ましきと、心陰《こころひそか》に怪む貫一。
「ああ、未だ御在《おいで》でしたか」
「はい、居りました。お午前《ひるまへ》から私《わたくし》お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
語気の卒《にはか》に※[#「※」は「がんだれ(厂)+萬」、368−10]《はげし》きを駭《おどろ》ける貫一は、空《むなし》く女の顔を見遣《みや》るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛《とん》だ御娯《おたのしみ》のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
その眼色《まなざし》は怨《うらみ》の鋩《きつさき》を露《あらは》して、男の面上を貫かんとやうに緊《きびし》く見据ゑたり。
貫一は苦笑して、
「貴方《あなた》は何を※[#「※」は「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷−日−勹」)」、368−16]《ばか》な事を言つてゐるのですか」
「今更お※[#「※」は「まだれ(广)+臾」、368−17]《かく》しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間《ひとま》に入つて、取付《とつつ》き引付《ひつつ》きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳《ななつ》や八歳《やつ》の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直《ぢき》に解りませうでは御座いませんか。
爾後《それから》貴方がお出掛になりますと私|直《ぢき》にここのお座敷へ推掛《おしか》けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
絮《くど》しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹《そばだ》てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又|有仰《おつしや》らなくても可ささうな事までお話を作《なさ》いますので、それは随分|聞難《ききにく》い事まで私伺ひました」
為失《しな》したりと貫一は密《ひそか》に術無《じゆつな》き拳《こぶし》を握れり。満枝は猶《なほ》も言足らで、
「然し、間さん、遉《さすが》に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯《おたのしみ》にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者《いつこくもの》だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠《ひしかくし》に隠し通してゐらしつたお手際《てぎは》には私実に驚入つて一言《いちごん》も御座いません。能く凄《すご》いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰《おつしや》つても、実はお嬉《うれし》いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋《こひし》くてゐらつしやるのですかね」
されば我が出行《いでゆ》きし迹《あと》をこそ案ぜしに、果してかかる※[#「※」は「薛/子」、370−1]《わざはひ》は出で来にけり。由無《よしな》き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼《こころくぐま》りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方《こなた》より熟々《つくづく》と見透《みすか》して目も放たず。
「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜《よろし》いでは御座いませんか。ああ云ふお美《うつくし》いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利《き》きに成るのもお可厭《いや》なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮《くど》い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶《どう》かそれだけ言《いは》して下さいまし」
貫一は冷《ひややか》に目を転《うつ》して、
「何なりと有仰《おつしや》い」
「私もう貴方を殺して了ひたい!」
「何です?!」
「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」
「それも可いでせう。可いけれど何で私《わたし》が貴方に殺されるのですか」
「間さん、貴方はその訳を御存無《ごぞんじな》いと有仰《おつしや》るのですか、どの口で有仰るのですか」
「これは怪《けし》からん! 何ですと」
「怪からんとは、貴方も余《あんま》りな事を有仰るでは御座いませんか」
既に恨み、既に瞋《いか》りし満枝の眼《まなこ》は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧《むし》ろ可恐《おそろ》しと念《おも》へり。
「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措《お》きません」
「貴方を何日《いつ》私が憎みました。そんな事は有りません」
「では、何で怪からんなどと有仰《おつしや》います」
「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決《け》して貴方に殺される覚《おぼえ》は無い」
満枝は口惜《くちを》しげに頭《かしら》を掉《ふ》りて、
「有ります! 立派に有ると私信じてをります」
「貴方が独《ひとり》で信じても……」
「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」
「私を殺すと云ふのですか」
「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」
「はあ、承知しました」
いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情《ふぜい》は添《そは》りけれど、軒端《のきば》なる芭蕉葉《ばしようば》の露夥《つゆおびただし》く夜気の侵すに堪《た》へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉《た》てて燈《ひ》を明《あか》うし、故《ことさら》に床の間の置時計を見遣りて、
「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩《おそ》くなるですから。ええ?」
「憚《はばか》り様で御座います」
「いや、御注意を申すのです」
「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」
「ああ、さうですか」
「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何《いかが》ですか」
憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看《み》んとやうに、姑《しばら》く男の顔色を候《うかが》ひしが、
「一体あれは何者なので御座います!」
犬にも非ず、猫にも非ず、汝《なんぢ》に似たる者よと思ひけれど、言争《いひあらそ》はんは愚なりと勘弁して、彼は才《わづか》に不快の色を作《な》せしのみ。満枝は益す独り憤《じ》れて、
「旧《ふる》いお馴染《なじみ》ださうで御座いますが、あの恰好《かつこう》は、商売人ではなし、万更の素人《しろうと》でもないやうな、貴方も余程《よつぽど》不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有《ぬしあ》る花で御座いませう」
妄《みだり》に言へるならんと念《おも》へど、如何《いか》にせん貫一が胸は陰《ひそか》に轟《とどろ》けるを。
「どうですか、なあ」
「さう云ふ者を対手《あひて》に遊ばすと、別《べつ》してお楽《たのしみ》が深いとか申しますが、その代《かはり》に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日《こんにち》まで巧《たくみ》に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公《おほやけ》に御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤《ごもつとも》で御座います。
その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌《きら》ひの嫌ひの大御嫌《だいおきら》ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦《こころくるし》くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程|幸《さいはひ》な事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他《ひと》を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召《おぼしめ》してゐらつしやい!」
聞訖《ききをは》りたる貫一は吃々《きつきつ》として窃笑《せつしよう》せり。
「貴方は気でも違ひは為《せ》んですか」
「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違《きちがひ》には作《な》すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝
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