》つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺《どちら》へいらつしやいましたらう!」
「那裡《あちら》にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
 老婢はここを倉皇《とつかは》起ちて、満枝が前に、
「此方《こちら》へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡《あちら》にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方|這裡《こちら》へ出てお在《いで》になつたのださうで御座います」
「嘘《うそ》、嘘ですよ」
「いいえ、那裡《あちら》にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方《こちら》へお出《いで》なさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方《どつち》へいらつしやつたのかと思ひまして……」
「那裡《あちら》にきつと隠れてでもお在《いで》なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水《てうづ》ですかしらん」
 随処《そこら》尋ねんとて彼は又|倉皇《とつかは》起ちぬ。
 有効無《ありがひな》きこの侵辱《はづかしめ》に遭《あ》へる吾身《わがみ》は如何《いか》にせん、と満枝は無念の遣《や》る方無さに色を変へながら、些《ちと》も騒ぎ惑はずして、知りつつ食《は》みし毒の験《しるし》を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂《いは》れず窃《ひそか》に苦めり。宮はその人の遁《のが》れ去りしこそ頼《たのみ》の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報《むくい》は悲くも何時まで儚《はかな》きこの身ならんと、打俯《うちふ》し、打仰ぎて、太息《ためいき》※[#「※」は「口+句」、360−4]《つ》くのみ。
 颯《さ》と空の昏《くら》み行く時、軒打つ雨は漸《やうや》く密なり。
 戸棚《とだな》、押入《おしいれ》の外《ほか》捜さざる処もあらざりしに、終《つひ》に主《あるじ》を見出《みいだ》さざる老婢は希有《けう》なる貌《かほ》して又|子亭《はなれ》に入来《いりきた》れり。
「何方《どちら》にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡《あちら》にも這裡《こちら》にもお客様を置去《おきざり》に作《なす》つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処《どつこ》にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」
 彼は又満枝の許《もと》に急ぎ行きて、事の由《よし》を告げぬ。
「いいえ、貴方《あなた》、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭《はなれ》にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」
 彼は遽《にはか》に心着きて履物《はきもの》を検《あらた》め来んとて起ちけるに、踵《つ》いで起てる満枝の庭前《にはさき》の縁に出づると見れば、※[#「※」は「にんべん+從」、361−2]々《つかつか》と行きて子亭《はなれ》の入口に顕《あらは》れたり。
 宮は何人《なにびと》の何の為に入来《いりきた》れるとも知らず、先《ま》づ愕《おどろ》きつつも彼を迎へて容《かたち》を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己《おのれ》より少《わか》く、己より美く、己より可憐《しをらし》く、己より貴《たつと》きを見たる妬《ねた》さ、憎さは、唯この者有りて可怜《いと》しさ故に、他《ひと》の情《なさけ》も誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣《つるぎ》とも成して、この場を去らず刺殺《さしころ》さまほしう、心は躍《をど》り襲《かか》り、躍り襲らんと為るなりけり。
 宮は稍羞《ややはぢら》ひて、葉隠《はがくれ》に咲遅れたる花の如く、夕月の涼《すずし》う棟《むね》を離れたるやうに満枝は彼の前に進出《すすみい》でて、互に対面の礼せし後、
「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」
 憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。
「はい親類筋の者で御座いまして」
「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来《これまで》お見上げ申しませんで御座いました」
「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方《どちら》に」
「池端《いけのはた》に居ります」
「へえ、池端、お宜《よろし》い処で御座いますね。然し、夙《かね》て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰《おつしや》るもので御座いますから、全くさうとばかり私《わたくし》信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意《つもり》であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体|作《なさ》るので御座いますよ」
 疑《うたがひ》の雲は始て宮が胸に懸《かか》りぬ。父が甞《かつ》て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指《さ》せしはこれならん。さては客来《きやくらい》と言ひしも詐《いつはり》にて、或《あるひ》は内縁の妻と定れる身の、吾を咎《とが》めて邪魔立せんとか、但《ただし》は彼人《かのひと》のこれ見よとてここに引出《ひきいだ》せしかと、今更に差《たが》はざりし父が言《ことば》を思ひて、宮は仇《あだ》の為に病めるを笞《むちう》たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処《いづく》にか潜めゐる彼人《かのひと》の吾が還るを待ちて忽《たちま》ち出で来て、この者と手を把《と》り、面《おもて》を並べて、可哀《あはれ》なる吾をば笑ひ罵《ののし》りもやせんと想へば、得堪《えた》へず口惜《くちをし》くて、如何《いか》にせば可《よ》きと心苦《こころくるし》く遅《ためら》ひゐたり。
「お久しぶりで折角お出《いで》のところを、生憎《あいにく》と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些《ちよつ》と遠方でございますから、お帰来《かへり》の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又|御寛《ごゆつく》りとお出《い》で遊ばしまして」
「大相|長座《ちようざ》を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些《ちよつ》とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日《こんにち》は一日遊んで参らうと楽《たのしみ》に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇《いとま》を致しませう」
「お帰来《かへり》で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多《いくら》降りましたところが俥《くるま》で御座いますから」
 互に憎し、口惜《くちを》しと鎬《しのぎ》を削る心の刃《やいば》を控へて、彼等は又|相見《あひみ》ざるべしと念じつつ別れにけり。

     第 七 章

 家の内を隈無《くまな》く尋ぬれども在らず、さては今にも何処《いづこ》よりか帰来《かへりこ》んと待てど暮せど、姿を晦《くらま》せし貫一は、我家ながらも身を容《い》るる所無き苦紛《くるしまぎ》れに、裏庭の木戸より傘《かさ》も※[#「※」は「敬/手」、364−5]《さ》さで忍び出でけるなり。
 されど唯一目散に脱《のが》れんとのみにて、卒《にはか》に志す方《かた》もあらぬに、生憎《あやにく》降頻《ふりしき》る雨をば、辛《から》くも人の軒などに凌《しの》ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節《をりふし》通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処《そこ》に躍入《をどりい》りけり。
 客は三組ばかり、各《おのおの》静に窓前の竹の清韻《せいいん》を聴きて相対《あひたい》せる座敷の一間《ひとま》奥に、主《あるじ》は乾魚《ひもの》の如き親仁《おやぢ》の黄なる髯《ひげ》を長く生《はや》したるが、兀然《こつぜん》として独《ひと》り盤を磨《みが》きゐる傍に通りて、彼は先《ま》づ濡《ぬ》れたる衣《きぬ》を炙《あぶ》らんと火鉢《ひばち》に寄りたり。
 異《あやし》み問はるるには能《よ》くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波《なごり》は今も轟《とどろ》く胸の内に痛《したた》か思回《おもひめぐら》して、又|空《むなし》く神《しん》は傷《いた》み、魂《こん》は驚くといへども、我や怒《いか》る可き、事や哀《あはれ》むべき、或《あるひ》は悲む可きか、恨む可きか、抑《そもそ》も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内《ごない》渾《すべ》て燃え、四肢《しし》直《ただち》に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶《はんもん》とは新に来《きた》りて彼を襲へるなり。
 主《あるじ》は貫一が全濡《づぶぬれ》の姿よりも、更に可訝《いぶかし》きその気色《けしき》に目留めて、問はでも椿事《ちんじ》の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁《のが》れ来にけれど、なかなか心安からで、両人《ふたり》を置去《おきざり》に為《せ》し跡は如何《いかに》、又我が為《せ》んやうは如何《いかに》など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒《さわが》しさには似で、小暗《をぐら》き空に満てる雨声《うせい》を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚《はなは》だ幽なり。主《あるじ》はこの時|窓際《まどぎは》の手合観《てあはせみ》に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾《ひ》ぬ袂《たもと》を翳《かざ》しつつ、愈《いよい》よ限無く惑ひゐたり。遽《にはか》に人の騒立つるに愕《おどろ》きて顔を挙《あぐ》れば、座中|尽《ことごと》く頸《くび》を延べて己《おの》が方《かた》を眺め、声々に臭しと喚《よば》はるに、見れば、吾が羽織の端《はし》は火中に落ちて黒煙《くろけふり》を起つるなり。直《ぢき》に揉消《もみけ》せば人は静《しづま》るとともに、彼もまた前《さき》の如し。
 少頃《しばし》有りて、門《かど》に入来《いりき》し女の訪《おとな》ふ声して、
「宅の旦那《だんな》様はもしや這裡《こちら》へいらつしやりは致しませんで為《し》たらうか」
 主は忽《たちま》ち髯《ひげ》の頤《おとがひ》を回《めぐら》して、
「ああ、奥にお在《いで》で御座いますよ」
 豊かと差覗《さしのぞ》きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方《こちら》にお在《いで》なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾《とう》にお帰《かへり》になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰《おつしや》いまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措《お》け」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経《た》つたら帰る」
「直《ぢき》にもうお中食《ひる》で御座いますが」
「可《い》いから早く行けよ」
「未《ま》だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
 老婢は傘と足駄《あしだ》
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