どの顔で逢ふ意《つもり》か。先達而《せんだつて》から頻《しきり》に手紙を寄来《よこ》すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直《すぐ》に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私《わたし》は今病中で、かうしてゐるのも太儀《たいぎ》でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」
 彼は老婢を召して、
「お客様のお立《たち》だ、お供にさう申して」
 取附く島もあらず思悩《おもひなや》める宮を委《お》きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私《わたし》は今日は死んでも可《い》い意《つもり》でお目に掛りに来たのですから、貴方《あなた》の存分にどんな目にでも遭《あは》せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました!! 悉《くはし》い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全《まる》で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言《いは》れない事ばかり、設《たと》ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些《ちつ》とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑《わび》は為る意《つもり》でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目《めんぼく》が無いやら、悲いやらで、何|一語《ひとこと》も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈《はず》でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
 涙ながらに手を※[#「※」は「てへん+主」、352−3]《つか》へて、吾が足下《あしもと》に額叩《ぬかづ》く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年|前《ぜん》の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
 唯《と》見る間に出行《いでゆ》く貫一、咄嗟《あなや》、紙門《ふすま》は鉄壁よりも堅く閉《た》てられたり。宮はその心に張充《はりつ》めし望を失ひてはたと領伏《ひれふ》しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声|劇《はげし》く縁続《えんつづき》の子亭《はなれ》より聞《きこ》ゆれば、直《ぢき》に走り行く足音の響きしが、やがて返し来《きた》れる老婢は客間に顕《あらは》れぬ。宮は未だ頭《かしら》を挙げずゐたり。可憐《しをらし》き束髪の頸元深《えりもとふか》く、黄蘖染《おうばくぞめ》の半衿《はんえり》に紋御召《もんおめし》の二枚袷《にまいあはせ》を重ねたる衣紋《えもん》の綾《あや》先《ま》づ謂はんやう無く、肩状《かたつき》優《やさし》う内俯《うつふ》したる脊《そびら》に金茶地《きんちやぢ》の東綴《あづまつづれ》の帯高く、勝色裏《かついろうら》の敷乱《しきみだ》れつつ、白羽二重《しろはぶたへ》のハンカチイフに涙を掩《おほ》へる指に赤く、白く指環《リング》の玉を耀《かがやか》したる、殆《ほとん》ど物語の画をも看《み》るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐《おそろし》きやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今|生憎《あいにく》と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日《こんにち》はこれで御立帰《おたちかへり》を願ひますで御座います」
 面《おもて》を抑へたるままに宮は涙を啜《すす》りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出《いで》のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今|些《ちよつ》と支度を致しますから、もう少々置いて戴《いただ》きますよ」
「さあさあ、貴方《あなた》御遠慮無く御寛《ごゆるり》と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日《こんにち》はいつそお寒過ぎますで御座います」
 彼の起ちし迹《あと》に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦《よみがへ》りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久《ひさし》かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又|出来《いできた》れり。宮はその時|遽《にはか》に身※[#「※」は「(尸+巾)+又」、353−11]《みづくろい》して、
「それではお暇《いとま》を致します。些《ちよつ》と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方《どちら》にお寝《よ》つてお在《いで》ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些《ちよつ》と」
「さやうで御座いますか。では此方《こちら》へ」
 主《あるじ》の本意《ほい》ならじとは念《おも》ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭《はなれ》に案内《あない》せり。昨夜《ゆふべ》の収めざる蓐《とこ》の内に貫一は着のまま打仆《うちたふ》れて、夜着《よぎ》も掻巻《かいまき》も裾《すそ》の方《かた》に蹴放《けはな》し、枕《まくら》に辛《から》うじてその端《はし》に幾度《いくたび》か置易《おきかへ》られし頭《かしら》を載《の》せたり。
 思ひも懸けず宮の入来《いりく》るを見て、起回《おきかへ》らんとせし彼の膝下《ひざもと》に、早くも女の転《まろ》び来て、立たんと為れば袂《たもと》を執り、猶《なほ》も犇《ひし》と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似《まね》だ!」
 突返さんとする男の手を、宮は両手に抱《いだ》き緊《し》めて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知《はぢしらず》!」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒《やかまし》い! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
 その身を楯《たて》に宮は放さじと争ひて益《ますま》す放さず、両箇《ふたり》が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又|相見《あひみ》じと誓へるその人の顔の、おのれ眺《なが》めたりし色は疾《と》く失せて、誰《たれ》ゆゑ今の別《べつ》に※[#「※」は「豐+盍」、354−15]《えん》なるも、なほ形のみは変らずして、実《げ》にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何《いか》にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間《ひま》に現《うつつ》ともなく彼を矚《まも》れり。宮は殆《ほとん》ど情|極《きはま》りて、纔《わづか》に狂せざるを得たるのみ。
 彼は人の頭《かしら》より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把《と》る手をば釈《と》かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許《いかばかり》大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持《も》たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無《はかりな》きものなりしが、嗟乎《ああ》、今|何処《いづこ》に在りや。その嘗《かつ》て誠を恵みし手は冷《ひやや》かに残れり。空《むなし》くその手を抱《いだ》きて泣かんが為に来《きた》れる宮が悔は、実《げ》に幾許《いかばかり》大いなる者ならん。
「さあ、早く帰れ!」
「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打《ぶ》つなり、殴《たた》くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小《すこし》でも機嫌《きげん》を直して、私のお詑《わび》に来た訳を聞いて下さい」
「ええ、煩《うるさ》い!」
「それぢや打つとも殴くともして……」
 身悶《みもだえ》して宮の縋《すが》るを、
「そんな事で俺《おれ》の胸が霽《は》れると思つてゐるか、殺しても慊《あきた》らんのだ」
「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」
「自分で死ね!」
 彼は自ら手を下《くだ》して、この身を殺すさへ屑《いさぎよ》からずとまでに己《おのれ》を鄙《いやし》むなるか、余に辛《つら》しと宮は唇《くちびる》を咬《か》みぬ。
「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更|見《みつ》とも無い態《ざま》を為ずに何為《なぜ》死ぬまで立派に棄て通さんのだ」
「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤《とつく》りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾《とう》から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
 宮は男の手をば益す弛《ゆる》めず、益す激する心の中《うち》には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易《か》ふる者を失はじと一向《ひたぶる》に思入るなり。
 折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何《いかに》、宮は些《ちと》も弛《ゆる》めざるのみか、その容《かたち》をだに改めんと為ず。果して足音は紙門《ふすま》の外に逼《せま》れり。
「これ、人が来る」
「…………」
 宮は唯力を極《きは》めぬ。
 不意にこの体《てい》を見たる老婢は、半《なかば》啓《あ》けたる紙門《ふすま》の陰に顔引入れつつ、
「赤樫《あかがし》さんがお出《いで》になりまして御座います」
 窮厄の色はつと貫一の面《おもて》に上《のぼ》れり。
「ああ、今|其方《そつち》へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」
「ぢや私はここに待つてゐますから」
「知らん! もう放せと言つたら」
 用捨もあらず宮は捻倒《ねぢたふ》されて、落花の狼藉《ろうぜき》と起き敢《あ》へぬ間に貫一は出行《いでゆ》く。

     (六) の 二

 座敷外に脱ぎたる紫裏《むらさきうら》の吾妻《あづま》コオトに目留めし満枝は、嘗《かつ》て知らざりしその内曲《うちわ》の客を問はで止む能《あた》はざりき。又常に厚く恵《めぐま》るる老婢は、彼の為に始終の様子を告《つぐ》るの労を吝《をし》まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚《しんい》に燃えて、可憎《につく》き人の疾《と》く出で来《こ》よかし、如何《いか》なる貌《かほ》して我を見んと為《す》らん、と焦心《せきごころ》に待つ間のいとどしう久《ひさし》かりしに、貫一はなかなか出《い》で来ずして、しかも子亭《はなれ》のほとほと人気《ひとけ》もあらざらんやうに打鎮《うちしづま》れるは、我に忍ぶかと、弥《いよい》よ満枝は怺《こら》へかねて、
「お豊さん、もう一遍|旦那《だんな》様にさう申して来て下さいな、私《わたし》今日は急ぎますから、些《ちよつ》とお目に懸りたいと」
「でも、私《わたくし》は誠に参り難《にく》いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在《いで》のやうで御座いますから」
「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」
「ではさう申上げて参りますです」
「はあ」
 老婢は行きて、紙門《ふすま》の外より、
「旦那さま、旦那さま」
「此方《こちら》にお在《いで》は御座いませんよ」
 かく答へしは客の声なり。豊は紙門《ふすま》を開きて、
「おや、さやうなので御座いますか」
 実《げ》に主《あるじ》は在らずして、在るが如くその枕頭《まくらもと》に坐れる客の、猶悲《なほかなしみ》の残れる面《おもて》に髪をば少し打乱《うちみだ》し、左の※[#「※」は「ころもへん+各」、358−10]《わきあけ》の二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽《にはか》に引枢《ひきつくろ》ひつつ、
「今し方|其方《そちら》へお出《いで》なすつたのですが……」
「おや、さやうなので御座いますか」
「那裡《あちら》のお客様の方へお出《いで》なすつたのでは御座いませんか」
「いいえ、貴方、那裡《あちら》のお客様が急ぐと有仰《おつしや
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