み》と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟《けふり》と消えて跡無くなりぬ。
貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥《あふぎふ》せり。
間《しばし》有りて婢《をんな》どもの口々に呼邀《よびむか》ふる声して、入来《いりき》し客の、障子|越《ごし》なる隣室に案内されたる気勢《けはひ》に、貫一はその男女《なんによ》の二人|連《づれ》なるを知れり。
彼等は若き人のやうにもあらず頗《すこぶ》る沈寂《しめやか》に座に着きたり。
「まだ沢山時間が有るから寛《ゆつく》り出来る。さあ、鈴《すう》さん、お茶をお上んなさい」
こは男の声なり。
「貴方《あなた》本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」
「盆過《ぼんすぎ》には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父《をぢ》さんや尊母《をば》さんの気が変つて了つてお在《いで》なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦《ただあきら》めるのだ。私《わたし》は男らしく諦めた!」
「雅《まさ》さんは男だからさうでせうけれど、私《わたし》は諦《あきら》めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんの為方《しかた》を慍《おこ》つてお在《いで》なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生|何処《どこ》へも適《い》きはしませんから」
女は処々《ところどころ》聞き得ぬまでの涙声になりぬ。
「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許《いくら》私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰《たれ》を怨《うら》む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯《からだ》に疵《きず》の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤《もつとも》だと、それは私は自分ながら思つてゐる」
「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰《もら》つて下されば可いのぢやありませんか」
「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔《くやし》いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※[#「※」は「(箆−竹−比)/民」、338−17]《わな》に罹《かか》つたばかりで、自分の躯には生涯の疵《きず》を付け、隻《ひとり》の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚《いひなづけ》は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如《いつそ》私は牢《ろう》の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
両箇《ふたり》は一度に哭《な》き出《いだ》せり。
「阿母さんがあん畜生《ちきしよう》の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒《はらいせ》ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴《すう》さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽《たのしみ》にして在《ゐな》すつた……のだし」
女《をんな》はつと出でし泣音《なくね》の後を怺《こら》へ怺へて啜上《すすりあ》げぬ。
「私《わたし》も破談に為《す》る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退《ひ》いて、これまでの縁と諦《あきら》めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
女は唯|愈《いよい》よ咽《むせ》びゐたり。音も立てず臥《ふ》したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処《そこここ》より男を隙見《すきみ》せんと為たりけれど、竟《つひ》に意《こころ》の如くならで止みぬ。然《しか》れども彼は正《まさし》くその声音《こわね》に聞覚《ききおぼえ》あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之《あくらまさゆき》ならずと為《せ》んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独《ひと》り頷《うなづ》きつつ貫一は又|潜《ひそま》りて聴耳立てたり。
「嘘《うそ》にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭《あひ》なので、それが為に縁を切る意《つもり》なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断《しほだち》なんぞ為はしませんわ」
彼は自らその苦節を憶《おも》ひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞《だま》されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共《ともども》に悔《くや》し……悔し……悔《くやし》いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時《いつ》私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
この心を知らずや、と情極《じようきはま》りて彼の悶《もだ》え慨《なげ》くが手に取る如き隣には、貫一が内俯《うつぷし》に頭《かしら》を擦付《すりつ》けて、巻莨《まきたばこ》の消えしを※[#「※」は「敬/手」、340−12]《ささ》げたるままに横《よこた》はれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月《みつき》の余《よ》も疾《わづら》つて……そんな事も雅さんは知つてお在《いで》ぢやないのでせう。それは、阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適《ゆ》かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛《かはい》がつて下すつた雅さんの尊母《おつか》さんに私は済まない。
親が不承知なのを私が自分の了簡通《りようけんどほり》に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適《ゆ》きたいのですから、お可厭《いや》でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有《あん》なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
貫一は身を回《めぐら》して臂枕《ひざまくら》に打仰《うちあふ》ぎぬ。彼は己《おのれ》が与へし男の不幸よりも、添《そは》れぬ女の悲《かなしみ》よりも、先《ま》づその娘が意気の壮《さかん》なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚《もゆ》る如き誠もあるよ、と頭《かしら》は熱《ねつ》し胸は轟《とどろ》くなり。
さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴《すう》さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭《あ》はなかつたら、今頃は家内三人で睦《むつまし》く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂《いは》れないほど情無い。かうして今では人に顔向《かほむけ》も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父《をぢ》さん、尊母《をば》さんの心にもなつて見たら、今の私には添《そは》されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情《じよう》は、何処《どこ》の親でも差違《かはり》は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦《あきら》めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽《たのしみ》に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些《ちつと》も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全《まる》で私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適《ゆ》くと極《きま》つて、その為に御嫁入道具まで丁《ちやん》と調《こしら》へて置きながら、今更外へ適《ゆか》れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余《あんま》り酷《ひど》いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他《よそ》へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
女は身を顫《ふるは》して泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為《せ》うと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極《き》めてゐますから」
亜《つ》いで男の声は為《せ》ざりしが、間有《しばしあ》りて孰《いづれ》より語り出でしとも分かず、又|一時《ひとしきり》密々《ひそひそ》と話声の洩《も》れけれど、調子の低かりければ此方《こなた》には聞知られざりき。彼等は久くこの細語《ささめごと》を息《や》めずして、その間一たびも高く言《ことば》を出《いだ》さざりしは、互にその意《こころ》に逆《さか》ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々《じよじよ》として飽かず語れるなり。貫一は心陰《こころひそか》に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何《いか》に幸《さいはひ》ならんかを想ひて、あたかも妙《たへ》なる楽の音《ね》の計らず洩聞《もれきこ》えけんやうに、憂《う》かる己をも忘れんとしつ。
今かの娘の宮ならば如何《いか》ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日《こんにち》の吾たるを択《えら》ぶ可《べ》きか、将《はた》かの雅之たるを希《こひねが》はんや。貫一は空《むなし》うかく想へり。
宮も嘗《かつ》て己に対して、かの娘に遜《ゆづ》るまじき誠を抱《いだ》かざるにしもあらざりき。彼にして若《も》し金剛石《ダイアモンド》の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全《まつた》うしたらんや。唯継《ただつぐ》の金力を以て彼女を脅《おびやか》したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀《かがや》ける金剛石《ダイアモンド》と汚《けが》れたる罪名とは、孰《いづれ》か愛を割《さ》くの力多かる。
彼は更にかく思へり。
唯その人を命として、己《おのれ》も有らず、家も有らず、何処《いづこ》の野末《のずゑ》にも相従《あひしたが》はんと誓へるかの娘の、竟《つひ》に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝《をし》みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
彼は又かくも思へるなり。
それ愛の最も篤《あつ》からんには、利にも惑はず、他に又|易《か》ふる者もあらざる可きを、仮初《かりそめ》もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明《あか》せるなり。凡《およ》そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或《ある》は己の信ずらんやうに、宮の愛の特《こと》に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故《ゆゑ》に
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