きに失敬した」
「荒尾さん」
満枝は※[#「※」は「しんにょう+官」、329−7]《のが》さじと呼留めて、
「かう云ふ処で申上げますのも如何《いかが》で御座いますけれど」
「ああ、そりや此《ここ》で聞くべき事ぢやない」
「けれど毎《いつ》も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」
「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁《に》げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」
「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜《よろし》いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」
「うう、随分|酷《ひど》い事を察しさせられるのじやね」
「近日に是非|私《わたくし》お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」
「そりや一向宜くないかも知れん」
「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬《き》つて了《しま》ふとか云ふ事が御座いましたさうで」
「有つた」
「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」
満枝は彼に耻《は》ぢよとばかり嗤笑《あざわら》ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、
「本当とも! 実際|那奴《あやつ》※[#「※」は「石+欠」、330−7]却《たたきき》つて了はうと思うた」
「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」
「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」
「まあ、怖《こは》い事ぢや御座いませんか。私《わたくし》なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」
そは誰《た》が事を言ふならんとやうに、荒尾は頂《うなじ》を反《そら》して噪《ののめ》き笑ひぬ。
「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭《ふ》いて置かう」
「荒尾君、夕飯《ゆふめし》の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」
「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」
「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」
満枝は荒尾の立てる脚下《あしもと》に褥《しとね》を推付《おしつ》けて、実《げ》に還さじと主《あるじ》にも劣らず最惜《いとをし》む様なり。
「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」
「そのお意《つもり》で、どうぞお席にゐらしつて」
固《もと》より留《とどま》らざるべき荒尾は終《つひ》に行かんとしつつ、
「間、貴様は……」
「…………」
「…………」
彼は唇《くちびる》の寒かるべきを思ひて、空《むなし》く鬱抑《うつよく》して帰り去れり。その言はざりし語《ことば》は直《ただち》に貫一が胸に響きて、彼は人の去《い》にける迹《あと》も、なほ聴くに苦《くるし》き面《おもて》を得挙《えあ》げざりけり。
(四) の 三
程も有らずラムプは点《とも》されて、止《た》だ在りけるままに竦《すく》みゐたる彼の傍《かたはら》に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧《よそほひ》をも加へけんやうに怪《け》しからず妖艶《あでやか》に、宛然《さながら》色香《いろか》を擅《ほしいまま》にせる牡丹《ぼたん》の枝を咲撓《さきたわ》めたる風情《ふぜい》にて、彼は親しげに座を進めつ。
「間《はざま》さん、貴方《あなた》どうあそばして、非常にお鬱《ふさ》ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」
貫一は怠《たゆ》くも纔《わづか》に目を移して、
「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」
「私よりは、貴方があの方の御朋友《ごほうゆう》でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」
「貴方はどうして御存じなのです」
「まあ債務者のやうな者なので御座います」
「債務者? 荒尾が? 貴方の?」
「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」
「はあ、さうして額《たか》は若干《どれほど》なのですか」
「三千円ばかりでございますの」
「三千円? それでその直接の貸主《かしぬし》と謂《い》ふのは何処《どこ》の誰ですか」
満枝は彼の遽《にはか》に捩向《ねぢむ》きて膝《ひざ》の前《すす》むをさへ覚えざらんとするを見て、歪《ゆが》むる口角《くちもと》に笑《ゑみ》を忍びつ、
「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生《へいぜい》私がお話でも致すと、全《まる》で取合つても下さいませんのですもの」
「まあ可いです」
「些《ちよつ》とも可い事はございません」
「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」
「存じません」
「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」
「私貴方からは戴きません」
「上げるのではない、弁償するのです」
「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」
「それは何為《なぜ》ですか」
「何為でも宜《よろし》う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召《おぼしめ》すなら、私に債権を棄てて了へと有仰《おつしや》つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」
「どう云ふ訳ですか」
「どう云ふ訳で御座いますか」
「甚《はなは》だ解らんぢやありませんか」
「勿論《もちろん》解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」
「いいや、僕は解つてゐます」
「ええ、解つてゐらつしやりながら些《ちよつ》ともお解りにならないのですから、私も益《ますま》す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」
満枝は金煙管《きんぎせる》に手炉《てあぶり》の縁《ふち》を丁《ちよう》と拍《う》ちて、男の顔に流眄《ながしめ》の怨《うらみ》を注ぐなり。
「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」
「御勝手ねえ、貴方は」
「さあ、お話し下さいな」
「唯今お話致しますよ」
満枝は遽《にはか》に煙管《きせる》を索《もと》めて、さて傍《かたはら》に人無き若《ごと》く緩《ゆるやか》に煙《けふり》を吹きぬ。
「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」
「…………」
「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」
「…………」
「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆《ほとん》ど有得べき事でないのだけれど、……」
「…………」
唯《と》見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。
「さあ、お話し下さいな」
「こんなに遅々《ぐづぐづ》してをりましたら、さぞ貴方|憤《じれ》つたくてゐらつしやいませう」
「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」
「憤つたいと云ふものは、決《け》して好い心持ぢやございませんのね」
「貴方は何を言つてお在《いで》なのです!」
「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」
「どうぞ」
「蓋《たし》か御承知でゐらつしやいましたらう。前《ぜん》に宅に居りました向坂《さぎさか》と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些《ちよつ》と盛《さかん》に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在《いで》なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟《つまり》あの方もその件から論旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方《あちら》を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然《すつかり》此方《こちら》へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。
然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止《とん》と遊んでお在《いで》も同様で、飜訳《ほんやく》か何か少《すこし》ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」
「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」
「それはあの方は連帯者なので御座います」
「はあ! さうして借主は何者ですか」
「大館朔郎《おおだちさくろう》と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚《あとばら》だとか云ふ話でございました」
「うむ、如何《いか》にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」
「御承知でゐらつしやいますか」
「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」
はやその言《ことば》の中《うち》に彼の心は急に傷《いた》みぬ。己《おのれ》の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々《せきせき》たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲《なげう》ち、恩の為に富貴を顧ざりし故《ゆゑ》にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優《まさ》れり。君子なる吾友《わがとも》よ。さしも潔き志を抱《いだ》ける者にして、その酬らるる薄倖《はつこう》の彼の如く甚《はなはだし》く酷なるを念ひて、貫一は漫《そぞ》ろ涙の沸く目を閉ぢたり。
第 五 章
遽《にはか》に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所《ほんじよ》発を期して車を飛せしに、咄嗟《あなや》、一歩の時を遅れて、二時間|後《のち》の次回を待つべき倒懸《とうけん》の難に遭《あ》へるなり。彼は悄々《すごすご》停車場前の休憇処に入《い》りて奥の一間なる縞毛布《しまケット》の上に温茶《ぬるちや》を啜《すす》りたりしが、門《かど》を出づる折受取りし三通の郵書の鞄《かばん》に打込みしままなるを、この時|取出《とりいだ》せば、中に一通の M., Shigis――と裏書せるが在り。
「ええ、又|寄来《よこ》した!」
彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読※[#「※」は「土/冖/一/几」、336−11]《よみがら》と一つに投入れし鞄を※[#「※」は「石+殷」、336−11]《はた》と閉づるや、枕に引寄せて仰臥《あふぎふ》すと見れば、はや目を塞《ふさ》ぎて睡《ねむり》を促さんと為るなりき。されども、彼は能《よ》く睡《ねぶ》るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟《あと》を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念《おもひ》には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。
いで、この文こそは宮が送りし再度の愬《うつたへ》にて、その始て貫一を驚かせし一札《いつさつ》は、約《およ》そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩《さき》に荒尾に答へしと同様の意を以《も》てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言《くりごと》なるべきを、何の未練有りて、徒《いたづら》に目を汚《けが》し、懐《おもひ》を傷《きずつ》けんやと、気強くも右より左に掻遣《かきや》りけるなり。
宮は如何《いか》に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖《さ》き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲《う》るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直《ただち》に貫一の心を解かんとは思設けざりき。
故《ゆゑ》に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験《しるし》あらずば、彼は弥増《いやま》す悲《かなしみ》の中に定めて三度《みたび》の筆を援《と》るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを――三度《みたび》、五度《いつたび》、七度《ななたび》重ね重ねて十《と》百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意《こころ》を決せるを。
静に臥《ふ》したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出《いだ》し、※[#「※」は「火+卒」、337−9]児《マッチ》を捜《さぐ》りて、封のままなるその端《はし》に火を移しつつ、火鉢《ひばち》の上に差翳《さしかざ》せり。一片の焔《ほのほ》は烈々《れつれつ》として、白く※[#「※」は「風+昜」、337−10]《あが》るものは宮の思の何か、黒く壊落《くづれお》つるものは宮が心の何か、彼は幾年《いくとせ》の悲《かなし
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