ゑ》ひ、流車を駆りて富に驕《おご》れる高下《こうげ》の差別《しやべつ》の自《おのづか》ら種《しゆ》有りて作《な》せるに似たる如此《かくのごと》きを、彼等は更に更に夢《ゆめみ》ざりしなり。その算《かぞ》へざりし奇遇と夢《ゆめみ》ざりし差別《しやべつ》とは、咄々《とつとつ》、相携へて二人の身上《しんじよう》に逼《せま》れるなり。女気《をんなぎ》の脆《もろ》き涙ははや宮の目に湿《うるほ》ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
「貴方《あなた》も変りましたな!」
 さしも見えざりし面《おもて》の傷の可恐《おそろし》きまでに益《ますま》す血を出《いだ》すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭《ぬぐ》はしめつつ、心も心ならず様子を窺《うかが》ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
 彼は何やらん吩咐《いひつ》けて車夫を遣りぬ。
「直《ぢき》この近くに懇意の医者が居りますから、其処《そこ》までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆《あぶな》うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出《いで》あそばしまし」
「いんや、宜《よろし》い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
 宮は胸先《むなさき》を刃《やいば》の透《とほ》るやうに覚《おぼ》ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈《はず》です」
 生きたる心地もせずして宮の慙《は》ぢ慄《をのの》ける傍《かたはら》に、車夫は見苦《みぐるし》からぬ一台の辻車《つじぐるま》を伴ひ来《きた》れり。漸《やうや》く面《おもて》を挙《あぐ》れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立《ひとたち》を、可忌《いまはし》くも巡査の怪みて近《ちかづ》くなり。

     第 二 章

 鬚深《ひげふか》き横面《よこづら》に貼薬《はりくすり》したる荒尾譲介《あらおじようすけ》は既に蒼《あを》く酔醒《ゑひさ》めて、煌々《こうこう》たる空気ラムプの前に襞※[#「※」は「ころもへん+責」、294−12]《ひだ》もあらぬ袴《はかま》の膝《ひざ》を丈六《じようろく》に組みて、接待莨《せつたいたばこ》の葉巻を燻《くゆ》しつつ意気|粛《おごそか》に、打萎《うちしを》れたる宮と熊の敷皮を斜《ななめ》に差向ひたり。こはこれ、彼の識《し》れると謂《い》ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒《いとぐち》を解きしなるべし。
「間《はざま》が影を隠す時、僕に遺《のこ》した手紙が有る、それで悉《くはし》い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫《ふる》へて腹が立つた。直《すぐ》に貴方《あなた》に会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒《い》ゆるほど打※[#「※」は「足+(殕−歹)」、295−1]《うちのめ》して、一生結婚の成らんやう立派な不具《かたは》にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言《ことば》を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言《ことば》を容《い》れやう道理が無い。又間を嫌《きら》うた以上は、貴方は富山への売物じや。他《ひと》の売物に疵《きず》を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯《たて》も耐《たま》らん胸を※[#「※」は「沙/手」、295−4]《さす》つて了《しま》うたんです」
 宮が顔を推当《おしあ》てたる片袖《かたそで》の端《はし》より、連《しきり》に眉《まゆ》の顰《ひそ》むが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間《はざま》さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨《うら》むばかりでは慊《あきた》らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生《しちしよう》まで怨む、きつと怨む!」
 終《つひ》に宮が得堪《えた》へぬ泣音《なくね》は洩《も》れぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子《いつぷじよし》に棄てられたが為に志を挫《くじ》いて、命を抛《なげう》つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何《いか》に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故《ゆゑ》に、彼が今日《こんにち》の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操《みさを》を破つたのみでない。併《あは》せて夫を刺殺《さしころ》したも……」
 宮は慄然《りつぜん》として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥《まなじり》は貫一が怨《うらみ》も憑《うつ》りたりやと、その見る前に身の措所無《おきどころな》く打竦《うちすく》みたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟《かいご》されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日《こんにち》に及んでの悔悟は業《すで》に晩《おそ》い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆《くつがへ》つた。盆は破れて了《しま》うたんじや。かう成つた上は最早《もはや》神の力も逮《およ》ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作《な》せる罪の報《むくい》で、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
 宮は俯《うつむ》きてよよと泣くのみ。
 吁《ああ》、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争《いか》で争で吾が罪を容《ゆる》すべき。吁《ああ》、吾が罪は終《つひ》に容《ゆる》されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
 宮は胸潰《むねつぶ》れて、涙の中に人心地《ひとここち》をも失はんとすなり。
 おのれ、利を見て愛無かりし匹婦《ひつぷ》、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情《じよう》は動くなりき。宮は際無《はてしな》く顔を得挙《えあ》げずゐたり。
「然し、好う悔悟を作《なす》つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因《よ》つて自ら容されたんじや」
 由無《よしな》き慰藉《なぐさめ》は聞かじとやうに宮は俯《ふ》しながら頭《かしら》を掉《ふ》りて更に泣入りぬ。
「自《みづから》にても容されたのは、誰《たれ》にも容されんのには勝《まさ》つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂《い》ふもの。僕は未《ま》だ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日《こんにち》の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間《はざま》の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰《いづれ》が多く憐《あはれ》むべきであるかと謂へば、間の無念は抑《そもそも》どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
 かうして今日《こんにち》図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝《かたじけな》いと思うた事も幾度《いくたび》か知れん、その媛友《レディフレンド》に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐《なつかし》う思ひました」
 宮は泣音《なくね》の迸《ほとばし》らんとするを咬緊《くひし》めて、濡浸《ぬれひた》れる袖《そで》に犇々《ひしひし》と面《おもて》を擦付《すりつ》けたり。
「けれど又、円髷《まるわげ》に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決《け》して可愛《かはゆ》うはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると言《いは》るる、善し、あの様に間を詐《いつは》つた貴方じや、又僕を幾何《どれ》ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打※[#「※」は「足+(殕−歹)」、297−11]《うちのめ》してくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は陰《ひそか》に喜んで聴いたのです。今日《こんにち》の貴方はやはり僕の友《フレンド》の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍の疵《きず》を附けにや還《かへ》さんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。
 で、間に取成してくれい、詑《わび》を言うてくれい、とのお嘱《たのみ》ぢやけれど、それは僕は為《せ》ん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。
 かうして親友の敵《かたき》に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭《いや》な言《こと》ばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好《ごきげんよ》う、これでお暇《いとま》します」
 会釈して荒尾の身を起さんとする時、
「暫《しばら》く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙《ふりあ》げて、重き瞼《まぶた》の露を払へり。
「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為《なす》つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私《わたくし》を容《ゆる》さんと有仰《おつしや》るので御座いますか」
「さうです」
 忙《せは》しげに荒尾は片膝《かたひざ》立ててゐたり。
「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今《ただいま》直《ぢき》に御飯が参りますですから」
「や、飯《めし》なら欲うありませんよ」
「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」
「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」
「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍《かんにん》なすつて下さいまし」
 火鉢《ひばち》の縁《ふち》に片手を翳《かざ》して、何をか打案ずる様《さま》なる目を※[#「※」は「(睹−目)/(翕−合)」、298−15]《そら》しつつ荒尾は答へず。
「荒尾さん、それでは、とてもお聴入《ききいれ》はあるまいと私は諦《あきら》めましたから、貫一《かんいつ》さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」
 咄嗟《とつさ》に荒尾の視線は転じて、猶|語続《かたりつづく》る宮が面《おもて》を掠《かす》め去《さ》りぬ。
「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何《いか》にも悪かつた事を思ふ存分|謝《あやま》りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素《もと》より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」
 宮は苦しげに涙を呑みて、
「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可《よ》いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」
 感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽《たちま》ちその長き髯《ひげ》を振りて頷《うなづ》けり。
「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言《いは》れた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継《ただつぐ》と云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」
「私はかまひません!」
「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやな
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