の袴《はかま》の焼海苔《やきのり》を綴《つづ》れる如きを穿《うが》ち、フラネルの浴衣《ゆかた》の洗ひ※[#「※」は「日+麗」、287−14]《ざら》して垢染《あかぞめ》にしたるに、文目《あやめ》も分かぬ木綿縞《もめんじま》の布子《ぬのこ》を襲《かさ》ねて、ジォンソン帽の瓦色《かはらいろ》に化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗《しまらしや》の二重外套《にじゆうまわし》は何《いつ》の冬|誰《た》が不用をや譲られけん、尋常《なみなみ》よりは寸の薄《つま》りたるを、身材《みのたけ》の人より豊なるに絡《まと》ひたれば、例の袴は風にや吹断《ふきちぎ》れんと危《あやふ》くも閃《ひらめ》きつつ、その人は齢《よはひ》三十六七と見えて、形※[#「※」は「やまいだれ+瞿」、287−17]《かたちや》せたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚《よ》りて孤なる風情《ふぜい》、独《ひと》り負ふ気無《げな》く麗《うるはし》くも富める髭髯《ひげ》は、下には乳《ち》の辺《あたり》まで※[#「※」は「參+毛」、288−2]々《さんさん》と垂れて、左右に拈《ひね》りたるは八字の蔓《つる》を巻きて耳の根にも※[#「※」は「しんにょう+台」、288−2]《およ》びぬ。打見《うちみ》れば面目《めんもく》爽《さはやか》に、稍傲《ややおご》れる色有れど峻《さかし》くはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺《のべ》を辿《たど》るらんやうに、西筋の横町をこの大路に出《い》で来《きた》らんとす。
「瓢《ひよう》空《むなし》く夜《よ》は静《しづか》にして高楼に上《のぼ》り、酒を買ひ、簾《れん》を巻き、月を邀《むか》へて酔《ゑ》ひ、酔中《すいちゆう》剣《けん》を払へば光《ひかり》月《つき》を射る」
彼は節《ふし》をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色《るりいろ》に夕栄《ゆふば》えて、俄《にはか》に冴《さ》え勝《まさ》る※[#「※」は「風+(魃−鬼)」、288−8]《こがらし》の目口に沁《し》みて磨錻《とぎはり》を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘《ふといきふ》いて、右に一歩左に一歩と※[#「※」は「足+禹」、288−9]《よろめ》きつつ、
「往々《おうおう》悲歌《ひか》して独《ひと》り流涕《りゆうてい》す、君山《くんざん》を※[#「※」は「戔+りっとう」、288−10]却《さんきやく》して湘水《しようすい》平に桂樹《けいじゆ》を※[#「※」は「石+欠」、288−10]却《しやくきやく》して月|更《さら》に明《あきらか》ならんを、丈夫《じようふ》志有《こころざしあ》りて……」
と唱《うた》ひ出《い》づる時、一隊の近衛騎兵《このえきへい》は南頭《みなみがしら》に馬を疾《はや》めて、真一文字《まいちもんじ》に行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭《てつべん》を植《た》てて、舞立つ砂煙《すなけむり》の中に魁《さきがけ》の花を装《よそほ》へる健児の参差《しんさ》として推行《おしゆ》く後影《うしろかげ》をば、壮《さかん》なる哉《かな》と謂《いは》まほしげに看送《みおく》りて、
「我《われ》四方《しほう》に遊びて意《こころ》を得ず、陽狂《ようきよう》して薬を施す成都の市《し》」
と漫《そぞろ》にその詩の首《はじめ》をば小声《こごゑ》朗《ほがらか》に吟じゐたり。さては往来《ゆきき》の遑《いとまな》き目も皆|牽《ひか》れて、この節季の修羅場《しゆらば》を独《ひとり》天下《てんか》に吃《くら》ひ酔《ゑ》へるは、何者の暢気《のんき》か、自棄《やけ》か、豪傑か、悟《さとり》か、酔生児《のんだくれ》か、と異《あやし》き姿を見て過《すぐ》る有れば、面《おもて》を識らんと窺《うかが》ふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼は太《いた》く酔《ゑ》へれば総《すべ》て知らず、町の殷賑《にぎはひ》を眺《なが》め遣《や》りて、何方《いづれ》を指して行かんとも心定らず姑《しばら》く立てるなりけり。
さばかり人に怪《あやし》まるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕《あらは》したるにあらず、折々散歩すらんやうに出来《いでく》ることあれど、箇様《かよう》の酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希《めづら》しと思へるなり。
やがて彼は鉄鞭《てつべん》を曳鳴《ひきなら》して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾《いぬゐ》の方《かた》より狭き坂道の開きたる角《かど》に来にける途端《とたん》に、風を帯びて馳下《はせくだ》りたる俥《くるま》は、生憎《あいにく》其方《そなた》に※[#「※」は「足+禹」、289−7]《よろめ》ける酔客《すいかく》の※[#「※」は「月+(賺−貝)」、289−7]《よわごし》の辺《あたり》を一衝撞《ひとあてあ》てたりければ、彼は郤含《はずみ》を打つて二間も彼方《そなた》へ撥飛《はねとば》さるると斉《ひとし》く、大地に横面擦《よこづらす》つて僵《たふ》れたり。不思議にも無難に踏留《ふみとどま》りし車夫は、この麁忽《そこつ》に気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅《かぢ》を回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾《くろあや》の吾妻《あづま》コオト着て、素鼠縮緬《すねずみちりめん》の頭巾被《づきんかぶ》れる婦人は樺色無地《かばいろむじ》の絹臘虎《きぬらつこ》の膝掛《ひざかけ》を推除《おしの》けて、駐《と》めよ、返せと悶《もだ》ゆるを、猶《なほ》聴かで曳々《えいえい》と挽《ひ》き行く後《うしろ》より、
「待て、こら!」と喝《かつ》する声に、行く人の始て事有りと覚《さと》れるも多く、はや車夫の不情を尤《とが》むる語《ことば》も聞ゆるに、耐《たま》りかねたる夫人は強《しひ》て其処《そこ》に下車して返り来《きた》りぬ。
例の物見高き町中なりければ、この忙《せはし》き際《きは》をも忘れて、寄来《よりく》る人数《にんず》は蟻《あり》の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞《つくば》へる周辺《めぐり》を擁し、一面には婦人の左右に傍《そ》ひて、目に物見んと揉立《もみた》てたり。婦人は途《みち》を来つつ被物《かぶりもの》を取りぬ。紋羽二重《もんはぶたへ》の小豆鹿子《あづきかのこ》の手絡《てがら》したる円髷《まるわげ》に、鼈甲脚《べつこうあし》の金七宝《きんしつぽう》の玉の後簪《うしろざし》を斜《ななめ》に、高蒔絵《たかまきゑ》の政子櫛《まさこぐし》を翳《かざ》して、粧《よそほひ》は実《げ》に塵《ちり》をも怯《おそ》れぬべき人の謂《い》ひ知らず思惑《おもひまど》へるを、可痛《いたは》しの嵐《あらし》に堪《た》へぬ花の顔《かんばせ》や、と群集《くんじゆ》は自《おのづか》ら声を歛《をさ》めて肝に徹《こた》ふるなりき。
いと更に面《おもて》の裹《つつ》まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞《はづか》しさと切なさとは幾許《いかばかり》なりけん、打赧《うちあか》めたる顔は措《お》き所あらぬやうに、人堵《ひとがき》の内を急足《いそぎあし》に辿《たど》りたり。帽子も鉄鞭《てつべん》も、懐《ふところ》にせしブックも、薩摩下駄《さつまげた》の隻《かたし》も投散されたる中に、酔客《すいかく》は半ば身を擡《もた》げて血を流せる右の高頬《たかほ》を平手に掩《おほ》ひつつ寄来《よりく》る婦人を打見遣《うちみや》りつ。彼はその前に先《ま》づ懦《わるび》れず会釈して、
「どうも取んだ麁相《そそう》を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打《ぶ》ちましたか、まあどうも……」
「いや太《たい》した事は無いのです」
「さやうでございますか。何処《どこ》ぞお痛め遊ばしましたでございませう」
腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣《きづか》へるなり。
車夫は数次《あまたたび》腰《こし》を屈《かが》めて主人の後方《うしろ》より進出《すすみい》でけるが、
「どうも、旦那《だんな》、誠に申訳もございません、どうか、まあ平《ひら》に御勘弁を願ひます」
眼《まなこ》を其方《そなた》に転じたる酔客は恚《いか》れるとしもなけれど声粛《こゑおごそか》に、
「貴様は善くないぞ。麁相《そそう》を為たと思うたら何為《なぜ》車を駐《と》めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻《かか》する」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
俥《くるま》の主の身を下《くだ》して辞《ことば》を添ふれば、彼も打頷《うちうなづ》きて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜《よろこび》に引易《ひきか》へて、見物の飽気無《あつけな》さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余《あまり》に落着の蛇尾《だび》振はざるを悔みて、はや忙々《いそがはし》き踵《きびす》を回《かへ》すも多かりけれど、又|見栄《みばえ》あるこの場の模様に名残《なごり》を惜みつつ去り敢《あ》へぬもありけり。
車夫は起ち悩める酔客を扶《たす》けて、履物《はきもの》を拾ひ、鞭《むち》を拾ひて宛行《あてが》へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇《ねんごろ》に外套《がいとう》、袴《はかま》の泥を払はしめぬ。免《ゆる》されし罪は消えぬべきも、歴々《まざまざ》と挫傷《すりきず》のその面《おもて》に残れるを見れば、疚《やまし》きに堪へぬ心は、なほ為《な》すべき事あるを吝《をし》みて私《わたくし》せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷《いたま》しと眺《なが》めたりしに、その眼色《まなざし》は漸《やうや》く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚《まも》りつつ便無《びんな》げに佇《たたず》みけるに、いでや長居は無益《むやく》とばかり、彼は蹌踉《よろよろ》と踏出《ふみいだ》せり。
婦人はとにもかくにも遣過《やりすご》せしが、又何とか思直《おもひなほ》しけん、遽《にはか》に追行きて呼止めたり。頭《かしら》を捻向《ねぢむ》けたる酔客は※[#「※」は「目+毛」、291−16]《くも》れる眼《まなこ》を屹《き》と見据ゑて、自《われ》か他《ひと》かと訝《いぶか》しさに言《ことば》も出《いだ》さず。
「もしお人違《ひとちがひ》でございましたら御免あそばしまして。貴方《あなた》は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回《かへ》して、丁《ちよう》と立てたる鉄鞭に仗《よ》り、こは是《これ》白日の夢か、空華《くうげ》の形か、正体見んと為れど、酔眼の空《むなし》く張るのみにて、益《ますま》す霽《は》れざるは疑《うたがひ》なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私《わたくし》荒尾です」
「あの間《はざま》貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
「私《わたくし》は鴫沢《しぎさわ》の宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰《おつしや》る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
奇遇に驚かされたる彼の酔《ゑひ》は頓《とみ》に半《なかば》は消えて、せめて昔の俤《おもかげ》を認むるや、とその人を打眺《うちなが》むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
宮は懽《よろこ》び勇みて犇《ひし》と寄りぬ。
今は美《うつくし》き俥《くるま》の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合《なのりあ》へるかれとこれとの思は如何《いかに》。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜《いとし》かりし人にあらずや。その日の彼等は又|同胞《はらから》にも得べからざる親《したしみ》を以《も》て、膝《ひざ》をも交《まじ》へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算《かぞ》へざりしなり。よしさりとも、一《ひと》たび同胞《はらから》と睦合《むつみあ》へりし身の、弊衣《へいい》を飄《ひるがへ》して道に酔《
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