わざ》とは毫《つゆ》も思ひ寄《よす》るにあらざりき。さは謂《い》へ、人の親の切なる情《なさけ》を思へば、実《げ》にさぞと肝に徹《こた》ふる節無《ふしな》きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇《あやし》き殃《わざはひ》にも遭《あ》ふなればと唯思過《ただおもひすご》されては窮無《きはまりな》き恐怖《おそれ》の募るのみ。
 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時《しばらく》門《かど》に居て動かざるは、その妄執《もうしゆう》の念力《ねんりき》を籠《こ》めて夫婦を呪《のろ》ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬《たと》へん方無く悩されぬ。されば狂女の門《かど》に在る間は、大御明尊《おおみあかしのみこと》の御前《おんまへ》に打頻《うちしき》り祝詞《のりと》を唱ふるにあらざれば凌《しの》ぐ能《あた》はず。かかる中《うち》にも心に些《ちと》の弛《ゆるみ》あれば、煌々《こうこう》と耀《かがや》き遍《わた》れる御燈《みあかし》の影《かげ》遽《にはか》に晦《くら》み行きて、天尊《てんそん》の御像《みかたち》も朧《おぼろ》に消失《きえう》せなんと吾目《わがめ》に見ゆるは、納受《のうじゆ》の恵に泄《も》れ、擁護《おうご》の綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠《こ》め、烟《けむり》を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。槍《やり》は降りても必ず来《く》べし、と震摺《おぢおそ》れながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何《いか》にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返《さえかへ》りたるこの日の寒気は鍼《はり》もて膚《はだへ》に霜を種《う》うらんやうに覚えしめぬ。外には烈風《はげしきかぜ》怒《いか》り号《さけ》びて、樹を鳴し、屋《いへ》を撼《うごか》し、砂を捲《ま》き、礫《こいし》を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃《ほこり》に蔽《おほは》れて、一天|晦《くら》く乱れ、日色《につしよく》黄《き》に濁りて、殊《こと》に物可恐《ものおそろし》き夕暮の気勢《けはひ》なり。
 鰐淵が門《かど》の燈《ともし》は硝子《ガラス》を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆《くつがへ》りたり。内の燈火《あかし》は常より鮮《あざやか》に主《あるじ》が晩酌の喫台《ちやぶだい》を照し、火鉢《ひばち》に架《か》けたる鍋《なべ》の物は沸々《ふつふつ》と薫《くん》じて、はや一銚子《ひとちようし》更《か》へたるに、未《いま》だ狂女の音容《おとづれ》はあらず。お峯は半《なかば》危みつつも幾分の安堵《あんど》の思を弄《もてあそ》び喜ぶ風情《ふぜい》にて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎《いつ》もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了《しま》ひませうから。ああ、真《ほん》に天尊様の御利益《ごりやく》があつたのだ」
 夫が差せる猪口《ちよく》を受けて、
「お相《あひ》をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴《いただ》くとお美《いし》いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方《あなた》。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然《いよいよ》今晩は来ないと極《きま》りましたね。ぢや、戸締《とじまり》を為《さ》して了ひませうか、真《ほん》に今晩のやうな気の霽々《せいせい》した、心《しん》の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿《いのち》を短《ちぢ》めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒《ごしゆ》もお美《いし》いものですね。なあにあの婆さんが唯怖《ただこは》いのぢやありませんよ。それは気味《きび》は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄《すご》くて耐《たま》らないのです。あれが来ると、悚然《ぞつ》と、惣毛竪《そうけだ》つて体《からだ》が竦《すく》むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着《とつつか》れでもするやうな気がして、あの、それ、能《よ》く夢で可恐《おそろし》い奴なんぞに追懸《おつか》けられると、迯《に》げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
 銚子を更《か》へて婢《をんな》の持来《もちきた》れば、
「金《きん》や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅《あんばい》でございます」
「お前には後でお菓子を御褒美《ごほうび》に出すからね。貴方《あなた》、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭《いや》なことを有仰《おつしや》いまし」
 吹来《ふききた》り、吹去る風は大浪《おほなみ》の寄せては返す如く絶間無く轟《とどろ》きて、その劇《はげし》きは柱などをひちひちと鳴揺《なりゆる》がし、物打倒す犇《ひしめ》き、引断《ひきちぎ》る音、圧折《へしお》る響は此処彼処《ここかしこ》に聞えて、唯居るさへに胆《きも》は冷《ひや》されぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶《てつびん》の湯気は雲を噴《は》くこと頻《しきり》なれど、更に背面を圧する寒《さむさ》は鉄板《てつぱん》などや負はさるるかと、飲めども多く酔《ゑ》ひ成さざるに、直行は後を牽《ひ》きて已《や》まず、お峯も心祝《こころいはひ》の数を過して、その地顔の赭《あか》きをば仮漆布《ニスし》きたるやうに照り耀《かがやか》して陶然たり。
 狂女は果して来《こ》ざりけり。歓《よろこ》び酔《ゑ》へるお峯も唯|酔《ゑ》へる夫も、褒美|貰《もら》ひし婢も、十時近き比《ころほひ》には皆|寐鎮《ねしづま》りぬ。
 風は猶《なほ》も邪《よこしま》に吹募りて、高き梢《こずゑ》は箒《ははき》の掃くが如く撓《たわ》められ、疎《まばら》に散れる星の数は終《つひ》に吹下《ふきおろ》されぬべく、層々|凝《こ》れる寒《さむさ》は殆《ほとん》ど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益《ますま》す冥《くら》く、益す凄《すさまじ》からんとす。忽《たちま》ちこの黒暗々を劈《つんざ》きて、鰐淵が裏木戸の辺《あたり》に一道《いちどう》の光は揚りぬ。低く発《おこ》りて物に遮《さへぎ》られたれば、何の火とも弁《わきま》へ難くて、その迸発《ほとばしり》の朱《あか》く烟《けむ》れる中に、母家《もや》と土蔵との影は朧《おぼろ》に顕《あらは》るるともなく奪はれて、瞬《またた》くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又|映《うつろ》ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時《しばし》明《あかり》を保ちたりしが、風の僅《わづか》の絶間を偸《ぬす》みて、閃々《ひらひら》と納屋《なや》の板戸を伝ひ、始めて騰《のぼ》れる焔《ほのほ》は炳然《へいぜん》として四辺《あたり》を照せり。塀際《へいぎは》に添ひて人の形《かたち》動くと見えしが、なほ暗くて了然《さだか》ならず。
 数息《すそく》の間にして火の手は縦横に蔓《はびこ》りつつ、納屋の内に乱入れば、噴出《ふきい》づる黒烟《くろけふり》の渦は或《あるひ》は頽《くづ》れ、或は畳みて、その外を引※[#「※」は「韋+(榲−木)」、273−6]《ひきつつ》むとともに、見え遍《わた》りし家も土蔵も堆《うづたか》き黯※[#「※」は「(黯−音)+甚」、273−6]《あんたん》の底に没して、闇は焔に破られ、焔は烟《けふり》に揉立《もみた》てられ、烟《けむり》は更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の夥《おびただし》ければ、猶ほ所狭《ところせ》く漲《みなぎ》りて、文目《あやめ》も分かず攪乱《かきみだ》れたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然《さだか》ならざりし形はこの時|明《あきらか》に輝かされぬ。宵に来《く》べかりし狂女の佇《たたず》めるなり。躍《をど》り狂ふ烟の下に自若として、面《おもて》も爛《ただ》れんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。実《げ》に彼は火の如何《いか》に焚《も》え、如何に燬《や》くや、と厳《おごそか》に監《み》るが如く眥《まなじり》を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焔《ほのほ》との相雑《あひまじは》り、相争《あひあらそ》ひ、相勢《あひきほ》ひて、力の限を互に奮《ふる》ふをば、妙《いみじ》くも為《し》たりとや、漫《そぞろ》笑《ゑみ》を洩《もら》せる顔色《がんしよく》はこの世に匹《たぐ》ふべきものありとも知らず。
 風の暴頻《あれしき》る響動《どよみ》に紛れて、寝耳にこれを聞着《ききつく》る者も無かりければ、誰一人|出《いで》て噪《さわ》がざる間に、火は烈々《めらめら》と下屋《げや》に延《し》きて、厨《くりや》の燃立つ底より一声|叫喚《きようかん》せるは誰《たれ》、狂女は※[#「※」は「口+喜」、273−16]々《きき》として高く笑ひぬ。

     (七) の 二

 人々出合ひて打騒《うちさわ》ぐ比《ころほひ》には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔《ほのほ》を出《いだ》し、はや如何《いか》にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風《ごうふう》なりしかど、消防|力《つと》めたりしに拠《よ》りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に※[#「※」は「しんにょう+台」、274−5]《およ》びて鎮火するを得たり。雑踏の裏《うち》より怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りも遣《やら》ざりしが捕《とらは》れしなり。
 火元と認定せらるる鰐淵方《わにぶちかた》は塵一筋《ちりひとすぢ》だに持出《もちいだ》さずして、憐《あはれ》むべき一片の焦土を遺《のこ》したるのみ。家族の消息は直《ただ》ちに警察の訊問《じんもん》するところとなりぬ。婢《をんな》は命|辛々《からがら》迯了《にげおほ》せけれども、目覚むると斉《ひとし》く頭面《まくらもと》は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨《よびすて》にして走り出《い》でければ、主《あるじ》たちは如何《いか》になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過《あやまち》など有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
 熱灰《ねつかい》の下より一体の屍《かばね》の半《なかば》焦爛《こげただ》れたるが見出《みいだ》されぬ。目も当てられず、浅ましう悒《いぶせ》き限を尽したれど、主《あるじ》の妻と輙《たやす》く弁ぜらるべき面影《おもかげ》は焚残《やけのこ》れり。さてはとその邇《ちか》くを隈無《くまな》く掻起《かきおこ》しけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚《おぼし》き辺《あたり》より始めて焦壊《こげくづ》れたる人骨を掘出《ほりいだ》せり。酔《ゑ》ひて遁惑《にげまど》ひし故《ゆゑ》か、貪《むさぼ》りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦《あるじふうふ》はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟《けふり》となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓《もと》むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔《ちようえんたんえん》の紛糾する処に、独《ひと》り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
 別居せる直道《ただみち》は旅行中にて未《いま》だ還《かへ》らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着《かけつ》けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈《てはず》なりければ、今は全く癒《い》えて務を執るをも妨げざれど、事の極《きは》めて不慮なると、急激なると、瑣小《さしよう》ならざるとに心惑《こころまどひ》のみせられて、病後の身を以《も》てこれに当らんはいと苦《くるし》かりけるを、尽瘁《じんすい》して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
 枕をも得挙《えあ》げざりし病人の今かく健《すこやか》に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑《かたくな》にも強かりしを、
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