※」は「しんにょう+台」、264−16]《およ》びて還さざらんか、彼は忽《たちま》ち爪牙《そうが》を露《あらは》し、陰に告訴の意を示してこれを脅《おびやか》し、散々に不当の利を貪《むさぼ》りて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶《な》ほ※[#「※」は「厭/食」、264−17]《あ》く無き慾は、更に件《くだん》の連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰《おもてざた》にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに於《おい》て誰《たれ》か恐慌し、狼狽《ろうばい》し、悩乱し、号泣し、死力を竭《つく》して七所借《ななとこがり》の調達《ちようだつ》を計らざらん。この時魔の如き力は喉《のんど》を扼《やく》してその背を※[#「※」は「てへん+府」、265−3]《う》つ、人の死と生とは渾《すべ》て彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。
雅之もこの※[#「※」は「(箆−竹−比)/民」、265−5]《わな》に繋《かか》りて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻《はたん》に及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為は終《つひ》に第二百十条の問ふところとなりぬ。
法律は鉄腕の如く雅之を拉《らつ》し去りて、剰《あまつ》さへ杖《つゑ》に離れ、涙に蹌《よろぼ》ふ老母をば道の傍《かたはら》に※[#「※」は「足+易」、265−8]返《けかへ》して顧ざりけり。噫《ああ》、母は幾許《いかばかり》この子に思を繋《か》けたりけるよ。親に仕《つか》へて、此上無《こよな》う優かりしを、柏井《かしわい》の鈴《すず》とて美き娘をも見立てて、この秋には妻《めあは》すべかりしを、又この歳暮《くれ》には援《ひ》く方《かた》有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆|休《や》みぬ、彼は人の歯《よはひ》せざる国法の罪人となり了《をは》れり。耻辱《ちじよく》、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。
無益《むやく》に言《ことば》を用ゐんより、唯手柔《ただてやはらか》に撮《つま》み出すに如《し》かじと、直行は少しも逆《さから》はずして、
「ああ宜《よろし》いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから外《おもて》へ行かう。さあ一処に来た」
狂女は苦々しげに頭《かしら》を掉《ふ》りて、
「お前さんの云ふことは皆|妄《うそ》だ。その手で雅之を瞞《だま》したのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着《だまくらか》して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札《いつさつ》をこの通り入れたぢやないか、これでも未《ま》だ※[#「※」は「森」のように「白」が3つ、266−2]《しらじら》しい顔をしてゐるのか」
打披《うちひろ》げたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香《うつりが》にや、胸悪き一種の腥気《せいき》ありて夥《おびただし》く鼻を撲《う》ちぬ。直行は猶《なほ》も逆はで已《や》む無く面《おもて》を背《そむ》けたるを、狂女は目を※[#「※」は「目+登」、266−4]《みは》りつつ雀躍《こをどり》して、
「おおおお、あれあれ! これは嬉《うれし》い、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」
地には落さじとやうに慌《あわ》て※[#「※」は「りっしんべん+草」、266−8]《ふため》き、油紙もて承けんと為《せ》る、その利腕《ききうで》をやにはに捉《とら》へて直行は格子《こうし》の外へ※[#「※」は「てへん+雙」、266−9]《おしだ》さんと為たり。彼は推《おさ》れながら格子に縋《すが》りて差理無理《しやりむり》争ひ、
「ええ、おのれは他《ひと》をこの崖《がけ》から突落す気だな。この老婦《としより》を騙討《だましうち》に為るのだな」
喚《わめ》きつつ身を捻返《ねぢかへ》して、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷《ふみすべ》らして尻居に倒るれば、彼は囃《はや》し立てて笑ふなり。忽《たちま》ち起上りし直行は彼の衿上《えりがみ》を掻掴《かいつか》みて、力まかせに外方《とのかた》へ突遣《つきや》り、手早く雨戸を引かんとせしに、軋《きし》みて動かざる間《ひま》に又|駈戻《かけもど》りて、狂女はその凄《すさまし》き顔を戸口に顕《あら》はせり。余りの可恐《おそろ》しさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲《う》ち、痿《ひる》むところを得たりと鎖《とざ》せば、外より割るるばかりに戸を叩きて、
「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊《くつどろぼう》、大騙《おほかたり》! 首を寄来《よこ》せ」
直行は佇《たたず》みて様子を候《うかが》ひゐたり。抜足差足《ぬきあしさしあし》忍び来《きた》れる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
夫は戸の外を指《ゆびさ》してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴《ゴムぐつ》と油紙との遺散《おちち》れるを見付けて、由無《よしな》き質を取りけるよと思《おも》ひ煩《わづら》へる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫《どうぶるひ》して、長くここに留《とどま》るに堪へず、夫を勧めて奥に入《い》りにけり。
戸叩く音は後《のち》も撓《たゆ》まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺《うかが》ひける時は、風|吹荒《ふきすさ》ぶ門《かど》の梅の飛雪《ひせつ》の如く乱点して、燈火の微《ほのか》に照す処その影は見えざるなりき。
次の日も例刻になれば狂女は又|訪《と》ひ来れり。主《あるじ》は不在なりとて、婢《をんな》をして彼の遺《のこ》せし二品《ふたしな》を返さしめけるに、前夜の暴《あ》れに暴れし気色《けしき》はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
お峯はその翌日も必ず来《きた》るべきを懼《おそ》れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢《をんな》を出《いだ》して不在の由《よし》を言はしめしに、こたびは直《ぢき》に立去らで、
「それぢやお帰来《かへり》までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
彼は戸口《かどぐち》に蹲《うづくま》りて動かず。婢は様々に言作《いひこしら》へて賺《すか》しけれど、一声も耳には入《い》らざらんやうに、石仏《いしぼとけ》の如く応ぜざるなり。彼は已《や》む無くこれを奥へ告げぬ。直行も為《せ》ん術《すべ》あらねば棄措《すてお》きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
お峯は心苦《こころぐるし》がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪《さわ》ぐを、直行は人を煩《わづらは》すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払《おひはら》ふべき手立《てだて》のありやと責むるに、害を為《な》すにもあらねば、宿無犬《やどなしいぬ》の寝たると想ひて意《こころ》に介《かく》るなとのみ。意《こころ》に介《か》くまじき如きを故《ことさら》に夫には学ばじ、と彼は腹立《はらだたし》く思へり。この一事《いちじ》のみにあらず、お峯は常に夫の共に謀《はか》ると謂ふこと無くて、女童《をんなわらべ》と侮《あなど》れるやうに取合はぬ風あるを、口惜《くちをし》くも可恨《うらめし》くも、又或時は心細さの便無《たよりな》き余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明《しんめい》の冥護《みようご》に拠《よ》らんと、八百万《やほよろづ》の神といふ神は差別無《しやべつな》く敬神せるが中にも、ここに数年|前《ぜん》より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇《あが》めたるは、その光紫の一大|明星《みようじよう》にて、御名《おんな》を大御明尊《おおみあかりのみこと》と申す。天地渾沌《てんちこんとん》として日月《じつげつ》も未《いま》だ成らざりし先|高天原《たかまがはら》に出現ましませしに因《よ》りて、天上天下万物の司《つかさ》と仰ぎ、諸《もろもろ》の足らざるを補ひ、総《すべ》て欠けたるを完《まつた》うせしめんの大御誓《おほみちかひ》をもて国土百姓を寧《やすらけ》く恵ませ給ふとなり。彼は夙《つと》に起信して、この尊をば一身|一家《いつけ》の守護神《まもりがみ》と敬ひ奉り、事と有れば祈念を凝《こら》して偏《ひとへ》に頼み聞ゆるにぞありける。
この夜は別して身を浄《きよ》め、御燈《みあかし》の数を献《ささ》げて、災難即滅、怨敵退散《おんてきたいさん》の祈願を籠《こ》めたりしが、翌日《あくるひ》の点燈頃《ひともしごろ》ともなれば、又来にけり。夫は出でて未《いま》だ帰らざれば、今日|若《も》し罵《ののし》り噪《さわ》ぎて、内に躍入《をどりい》ることもやあらば如何《いかに》せんと、前後の別《わかれ》知らぬばかりに動顛《どうてん》して、取次には婢を出《いだ》し遣《や》り、躬《みづから》は神棚《かみだな》の前に駈着《かけつ》け、顫声《ふるひごゑ》を打揚《うちあ》げ、丹精を抽《ぬきん》でて祝詞《のりと》を宣《の》りゐたり。狂女は不在と聞きて敢《あへ》て争はず、昨日《きのふ》の如く、ここにて帰来《かへり》を待たんとて、同《おなじ》き処に同き形して蹲《うづくま》れり。婢は格子を鎖《さ》し固めて内に入《い》りけるが、暫《しばら》くは音も為ざりしに、遽《にはか》に物語る如き、或《あるひ》は罵《ののし》る如き声の頻《しきり》に聞ゆるより主《あるじ》の知らで帰来《かへりき》て、捉《とら》へられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗《さしのぞ》けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主《あるじ》に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃《あとさきぶぞろひ》に泣いつ怒りつ訴ふるなり。
第 七 章
子の讐《かたき》なる直行が首を獲《え》んとして夕々《ゆふべゆふべ》に狂女の訪ひ来ること八日に※[#「※」は「しんにょう+台」、269−8]《およ》べり。浅ましとは思へど、逐《お》ひて去らしむべきにあらず、又|門口《かどぐち》に居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措《すておか》るるなりき。直行が言へりし如く、畢竟《ひつきよう》彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太《はなは》だ択《えら》ばざるべけれど、縮緬《ちりめん》の被風《ひふ》着たる人の形の黄昏《たそが》るる門の薄寒きに踞《つくば》ひて、灰色の剪髪《きりがみ》を掻乱《かきみだ》し、妖星《ようせい》の光にも似たる眼《まなこ》を睨反《ねめそら》して、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤《いか》り、己《おのれ》の胸のやうに際《そこひ》も知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲《かなしみ》と恨とを訴へ、腥《なまぐさ》き油紙を拈《ひね》りては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終《つひ》にはこの家に祟《たたり》を作《な》すべき望を繋《か》くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈《つんざ》き、巌《いはほ》を砕くの例《ためし》、ましてや家を滅《めつ》し、人を鏖《みなごろし》にすなど、塵《ちり》を吹くよりも易《やす》かるべきに、可恐《おそろ》しや事無くてあれかしと、お峯は独《ひと》り謂知《いひし》らず心を傷《いた》むるなり。
夫は決《け》して雅之の私書偽造を己《おのれ》の陥れし巧《たくみ》なりとは彼に告げざれば、悪は正《まさし》く狂女の子に在りて、此方《こなた》に恨を受くべき筋は無く、自《おのづか》らかかる事も出来《いでく》るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒《かしだふれ》の損耗あるを思へば、所詮《しよせん》仆《たふ》し、仆さるるは商《あきなひ》の習と、お峯は自《おのづか》ら意《こころ》を強うして、この老女《ろうによ》の狂《くるひ》を発せしを、夫の為《な》せる業《
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