も無くて独《ひと》り耀《かがや》けり。
「それでは私もうお暇《いとま》を致します」
「ほう、もう、お帰去《かへり》かな。私《わし》もはや行かん成らんで、其所《そこ》まで御一処に」
「いえ、私|些《ちよつ》と、あの、西黒門町《にしくろもんちよう》へ寄りますでございますから、甚《はなは》だ失礼でございますが……」
「まあ、宜《よろし》い。其処《そこ》まで」
「いえ、本当に今日《こんにち》は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座《あさひざ》の株式一件な、あれがつい纏《まとま》りさうぢやで、この際お打合《うちあはせ》をして置かんと、『琴吹《ことぶき》』の収債《とりたて》が面白うない。お目に掛つたのが幸《さいはひ》ぢやから、些《ちよつ》とそのお話を」
「では、明日《みようにち》にでも又、今日は些《ち》と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
 姑《しばら》く推《おし》問答の末彼は終《つひ》に満枝を拉《らつ》し去れり。迹《あと》に貫一は悪夢の覚めたる如く連《しきり》に太息《ためいき》※[#「※」は「口+句」、245−14]《つ》いたりしが、やがて為《せ》ん方無げに枕《まくら》に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方《かた》に、止《た》だ果無《はてしな》く目を奪れゐたり。

     第 五 章

 檜葉《ひば》、樅《もみ》などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯|麗《うららか》なる日影のみぞ饒《ゆたか》に置余《おきあま》して、そこらの梅の点々《ぼちぼち》と咲初めたるも、自《おのづか》ら怠り勝に風情《ふぜい》作らずと見ゆれど、春の色香《いろか》に出《い》でたるは憐《あはれ》むべく、打霞《うちかす》める空に来馴《きな》るる鵯《ひよ》のいとどしく鳴頻《なきしき》りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々《せきせき》たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩《ゆる》う行くなり。
 枕の上の徒然《つれづれ》は、この時人を圧して殆《ほとん》ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛《から》うじて夢を結びゐたり。彼は実《げ》に夢ならでは有得べからざる怪《あやし》き夢に弄《もてあそ》ばれて、躬《みづから》も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡《ねむり》の中に囚《とらは》れしを、端無《はしな》く人の呼ぶに駭《おどろか》されて、漸《やうや》く慵《ものう》き枕を欹《そばだ》てつ。
 愕然《がくぜん》として彼は瞳《ひとみ》を凝《こら》せり。ベッドの傍《かたはら》に立てるは、その怪き夢の中に顕《あらは》れて、終始|相離《あひはな》れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視《み》れども訪来《とひきた》れる満枝に紛《まぎれ》あらざりき。とは謂《い》へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中《うち》なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺《あたり》も可輝《かがやかし》く、五六歳《いつつむつ》ばかりも若《わかや》ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路《むそぢ》に余れる夫有《つまも》てる身と誰《たれ》かは想ふべき。
 髪を台湾銀杏《たいわんいちよう》といふに結びて、飾《かざり》とてはわざと本甲蒔絵《ほんこうまきゑ》の櫛《くし》のみを挿《さ》したり。黒縮緬《くろちりめん》の羽織に夢想裏《むそううら》に光琳風《こうりんふう》の春の野を色入《いろいり》に染めて、納戸縞《なんどじま》の御召の下に濃小豆《こいあづき》の更紗縮緬《さらさちりめん》、紫根七糸《しこんしちん》に楽器尽《がつきつくし》の昼夜帯して、半襟《はんえり》は色糸の縫《ぬひ》ある肉色なるが、頸《えり》の白きを匂《にほ》はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛《きらきら》と煩《うるさ》し。今日は殊《こと》に推《お》して来にけるを、得堪《えた》へず心の尤《とが》むらん風情《ふぜい》にて佇《たたず》める姿《すがた》限無《かぎりな》く嬌《なまめ》きて見ゆ。
「お寝《やすみ》のところを飛んだ失礼を致しました。私《わたくし》上《あが》る筈《はず》ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些《ちよつ》と伺ひましたのでございますから、今日《こんにち》のところはどうか御堪忍《ごかんにん》あそばして」
 彼の許《ゆるし》を得んまでは席に着くをだに憚《はばか》る如く、満枝は漂《ただよは》しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
 内に燃ゆる憤《いかり》を抑《おさ》ふるとともに貫一の言《ことば》は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜《よろし》いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰《おつしや》らずに……」
「失礼します。今日《こんにち》は腰の傷部《きず》が又痛みますので」
「おや、それは、お劇《きつ》いことはお在《あん》なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在《ゐら》しつて」
 貫一は無雑作に郡内縞《ぐんないじま》の掻巻《かいまき》引被《ひきか》けて臥《ふ》しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤《まめやか》に冊《かしづ》きて、やがて己《おのれ》も始めて椅子に倚《よ》れり。
「貴方《あなた》の前でこんな事は私申上げ難《にく》いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰《おつしや》るので、湯島《ゆしま》の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定|可厭《いやらし》い事をもうもう執濃《しつこ》く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑《うたぐ》つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効《としがひ》の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召《おぼしめ》してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯《たはむ》れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取《と》んだ八当《やつあたり》で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪《あし》からず……。
 今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜《よろし》いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些《ちよつと》でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜《きらひぬ》いてお在《いで》あそばす私《わたくし》のやうな者と訳でもあるやうに有仰《おつしや》られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦《あきら》め遊ばしまし。
 貴方も因果なれば、私も……私は猶《なほ》因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂《い》ふのでございませうね」
 金煙管《きんぎせる》の莨《たばこ》の独《ひと》り杳眇《ほのぼの》と燻《くゆ》るを手にせるまま、満枝は儚《はかな》さの遣方無《やるかたな》げに萎《しを》れゐたり。さるをも見向かず、答《いら》へず、頑《がん》として石の如く横《よこた》はれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切《せめ》てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透《とほ》つたやうな気が致すのでございます。
 間さん。貴方は過日《いつぞや》私がこんなに思つてゐることを何日《いつ》までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何《いかが》なのでございますよ」
 勢ひて問詰むれば、極《きは》めて事も無げに、
「忘れません」
 満枝は彼の面《おもて》を絶《したたか》に怨視《うらみみ》て瞬《またたき》も為《せ》ず、その時人声して闥《ドア》は徐《しづか》に啓《あ》きぬ。
 案内せる附添の婆《ばば》は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑《こころまどひ》せらるる体《てい》にて、彼にさへ可慎《つつまし》う小声に言付けつつ名刺を渡せり。
 満枝は如何なる人かと瞥《ちら》と見るに、白髪交《しらがまじ》りの髯《ひげ》は長く胸の辺《あたり》に垂れて、篤実の面貌痩《おもざしや》せたれども賤《いやし》からず、長《たけ》は高しとにあらねど、素《もと》より※[#「※」は「月+叟」、250−1]《ゆたか》にもあらざりし肉の自《おのづか》ら齢《よはひ》の衰《おとろへ》に削れたれば、冬枯の峰に抽《ぬ》けるやうに聳《そび》えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽《おくゆかし》くて、誰とも知らねどさすがに疎《おろそか》ならず覚えて、彼は早くもこの賓《まらうど》の席を設けて待てるなりき。
 貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三《しぎさわりゆうぞう》と誌《しる》したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕《おどろき》に駆れて、忽《たちま》ち身を飜《ひるがへ》して其方《そなた》を見向かんとせしが、幾《ほとん》ど同時に又枕して、終《つひ》に動かず。狂ひ出でんずる息を厳《きびし》く閉ぢて、燃《もゆ》るばかりに瞋《いか》れる眼《まなこ》は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹《つつ》める一点の涙は不覚に滾《まろ》び出《い》でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方《こちら》へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
 人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜《けがらは》しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強《し》ひて目を塞《ふさ》ぎ、身の顫《ふる》ふをば吾と吾手に抱窘《だきすく》めて、恨は忘れずとも憤《いかり》は忍ぶべしと、撻《むちう》たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪《さかだ》ち蠢《うごめ》きて、頭脳の裏《うち》に沸騰《わきのぼ》る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫《みだれさ》すなり。彼はこれと争ひて猶《なほ》も抑へぬ。面色は漸《やうや》く変じて灰の如し。婆は懼《おそ》れたる目色《めざし》を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断《ことわ》つて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰《おつしや》つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」

     (五) の 二

 婆は鴫沢《しぎさわ》の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様《うしろさま》に束《つか》ねたるままに受取らで、強《し》ひて面《おもて》を和《やはら》ぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分《だいぶ》久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜《よろし》い。私《わし》が直《ぢか》にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
 屹《き》と思案せる鴫沢の椅子ある方《かた》に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦《すす》めぬ。
「貫一さん、私《わし》だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
 室の隅《すみ》に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或《あるひ》は指図もし、又自ら持来《もちきた》りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるな
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