ざいます。始終好い加減なことを申しては遁《に》げてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁《しげしげ》いらつしやるので、度々《たびたび》お目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰《おつしや》つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了《しま》ひました」
「え!」と貫一は繃帯《ほうたい》したる頭を擡《もた》げて、彼の有為顔《したりがほ》を赦《ゆる》し難く打目戍《うちまも》れり。満枝はさすが過《あやまち》を悔いたる風情《ふぜい》にて、やをら左の袂《たもと》を膝《ひざ》に掻載《かきの》せ、牡丹《ぼたん》の莟《つぼみ》の如く揃《そろ》へる紅絹裏《もみうら》の振《ふり》を弄《まさぐ》りつつ、彼の咎《とがめ》を懼《おそ》るる目遣《めづかひ》してゐたり。
「実に怪《け》しからん! ※[#「※」は「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷−日−勹」)」、238−8]《ばか》なことを有仰《おつしや》つたものです」
 萎《しを》るる満枝を尻目に掛けて、
「もう可いから、早くお還り下さい」
 彼を喝《かつ》せし怒《いかり》に任せて、半《なかば》起したりし体《たい》を投倒せば、腰部《ようぶ》の創所《きずしよ》を強く抵《あ》てて、得堪《えた》へず呻《うめ》き苦むを、不意なりければ満枝は殊《こと》に惑《まど》ひて、
「どう遊ばして? 何処《どこ》ぞお痛みですか」
 手早く夜着《よぎ》を揚げんとすれば、払退《はらひの》けて、
「もうお還り下さい」
 言放ちて貫一は例の背《そびら》を差向けて、遽《にはか》に打鎮《うちしづま》りゐたり。
「私《わたくし》還りません! 貴方がさう酷く有仰《おつしや》れば、以上還りません。いつまでも居られる躯《からだ》ではないのでございますから、順《おとなし》く還るやうにして還して下さいまし」
 いとはしたなくて立てる満枝は闥《ドア》の啓《あ》くに驚かされぬ。入来《いりきた》れるは、附添婆《つきそひばば》か、あらず。看護婦か、あらず。国手《ドクトル》の回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!
 胡麻塩羅紗《ごましほらしや》の地厚なる二重外套《にじゆうまわし》を絡《まと》へる魁肥《かいひ》の老紳士は悠然《ゆうぜん》として入来《いりきた》りしが、内の光景《ありさま》を見ると斉《ひとし》く胸悪き色はつとその面《おもて》に出《い》でぬ。満枝は心に少《すこ》く慌《あわ》てたれど、さしも顕《あらは》さで、雍《しとや》かに小腰を屈《かが》めて、
「おや、お出《いで》あそばしまし」
「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」
 同く慇懃《いんぎん》に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼《かなつぼまなこ》は光を逞《たくまし》う女の横顔を瞥見《べつけん》せり。静に臥《ふ》したる貫一は発作《パロキシマ》の来《きた》れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行《ただゆき》を迎ふれば、
「どうぢやな。好《え》え方がお見舞に来てをつて下さるで、可《え》えの」
 打付《うちつけ》に過ぎし言《ことば》を二人ともに快からず思へば、頓《とみ》に答《いらへ》は無くて、その場の白《しら》けたるを、さこそと謂《い》はんやうに直行の独《ひと》り笑ふなりき。如何《いか》に答ふべきか。如何に言釈《いひと》くべきか、如何に処すべきかを思煩《おもひわづら》へる貫一は艱《むづか》しげなる顔を稍《やや》内向けたるに、今はなかなか悪怯《わるび》れもせで満枝は椅子の前なる手炉《てあぶり》に寄りぬ。
「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙《せはし》いところを度々お見舞下されては痛入《いたみい》ります。それにこれの病気も最早|快《よ》うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出《い》で下さるのは何分お断り申しまする」
 言黒《いひくろ》めたる邪魔立を満枝は面憎《つらにく》がりて、
「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々|次手《ついで》がありますのでございますから、その御心配には及びません」
 直行の眼《まなこ》は再び輝けり。貫一は憖《なまじひ》に彼を窘《くるし》めじと、傍《かたはら》より言《ことば》を添へぬ。
「毎度お訪ね下さるので、却《かへ》つて私《わたくし》は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然《しかるべく》御断り下さるやうに」
「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」
「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私《わたくし》差控へませう」
 満枝は色を作《な》して直行を打見遣《うちみや》りつつ、その面《おもて》を引廻《ひきめぐら》して、やがて非《あら》ぬ方《かた》を目戍《まも》りたり。
「いや、いや、な、決《け》して、そんな訳ぢや……」
「余《あんま》りな御挨拶で! 女だと思召《おぼしめ》して有仰《おつしや》るのかは存じませんが、それまでのお指図《さしづ》は受けませんで宜《よろし》うございます」
「いや、そんなに悪う取られては甚《はなは》だ困る、畢竟《ひつきよう》貴方《あんた》の為を思ひますじやに因《よ》つて……」
「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私《わたくし》の不為《ふため》になるのでございませう」
「それにお心着《こころづき》が無い?」
 その能く用ゐる微笑を弄《ろう》して、直行は巧《たくみ》に温顔を作れるなり。
 満枝は稍《やや》急立《せきた》ちぬ。
「ございません」
「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子《をなご》が度々|出入《でいり》したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易《やす》い、可《え》えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様《あかがしさん》と云ふ者のある貴方の躯《からだ》に疵《きず》が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」
 陰には己《おのれ》自ら更に甚《はなはだし》き不為を強《し》ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑《をか》し、と満枝は思ひつつも、
「それは御深切に難有《ありがた》う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美《うつくし》い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯《からだ》でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私|自今《これから》慎《つつし》みますでございます」
「これは太《えら》い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘《うそ》にもかれこれ言《いは》るるんぢやから、どんなにも嬉《うれし》いぢやらう、私《わし》のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為《す》まいにな」
 貫一は苦々しさに聞かざる為《まね》してゐたり。
「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」
「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」
「それこそ、御妻君が在《ゐら》つしやるのですから、余り頻繁《しげしげ》上りますと……」
 後は得言はで打笑める目元の媚《こび》、ハンカチイフを口蔽《くちおほひ》にしたる羞含《はぢがま》しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。
「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出《いで》かな。私《わし》は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」
「はい、有仰《おつしや》つて下さいまし。私《わたくし》此方《こなた》へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方《あなた》から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却《かへ》つて私の伺ふのを懊悩《うるさ》く思召《おぼしめ》してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障《めざはり》か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作《なさ》らなくても宜《よろし》いではございませんか。
 然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅《たく》へお出《いで》になつた御帰途《おかへりみち》にこの御怪我《おけが》なんでございませう。それに、未《ま》だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂《つのかみざか》へお出《いで》なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途《みち》でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜《よろこび》が無いのでございませう」
 彼はいと辛《つら》しとやうに、恨《うらめ》しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視《み》るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃《ひそか》に金壺眼《かなつぼまなこ》の一角を溶《とろか》しつつ眺入《ながめい》るにぞありける。
「さやうかな。如何《いか》さま、それで善う解りましたじや。太《えら》い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又|私《わし》からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念《おも》うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻《しりぞく》るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措《お》けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌《きら》はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
 赤髭《あかひげ》を拈《ひね》り拈りて、直行は女の気色《けしき》を偸視《ぬすみみ》つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論《もちろん》結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧《くちやかまし》くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難《きむづかし》うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太《えら》う嫌うたもんですな」
「尤《もつと》も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方《こつち》から好きましても、他《さき》で嫌はれましては、何の効《かひ》もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方《あんた》のやうな方が此方《こつち》から好いたと言うたら、どんな者でも可厭《いや》言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰《おつしや》つて! 如何《いかが》でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
 椅子も傾くばかりに身を反《そら》して、彼はわざとらしく揺上《ゆりあ》げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何《いかが》ですか、さう云ふ事は」
 誰《たれ》か烏《からす》の雌雄《しゆう》を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯《うそぶ》けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈《はず》はございませんわ。ほほほほほほほほ」
 そのわざとらしさは彼にも遜《ゆづ》らじとばかり、満枝は笑ひ囃《はや》せり。
 直行が眼《まなこ》は誰を見るとし
前へ 次へ
全71ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング