を懺悔《ざんげ》したらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。
「そんなに言ふのなら、還《かへ》つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為《せゐ》で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」
「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐《たま》らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂《い》つたら可いのだらう――私があんなに不仕合《ふしあはせ》な身分にして了《しま》つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐《おそろし》いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外《ほか》には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉《うれし》からうと、そんな事ばかり考へては鬱《ふさ》いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当《さしあたり》阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」
されども母は投首《なげくび》して、
「私の考量《かんがへ》ぢや、どうも今更ねえ……」
「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」
「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」
「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は※[#「※」は「馮/几」、231−13]拠《あて》にはしないから、不承知なら不承知でも可いの」
涙含《なみだぐ》みつつ宮が焦心《せきごころ》になれるを、母は打惑ひて、
「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」
「阿母さん、可いわ――私、可いの」
「可《よ》かないよ」
「可かなくつても可いわ」
「あれ、まあ、……何だね」
「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」
我にもあらで迸《ほとばし》る泣声を、つと袖に抑《おさ》へても、宮は急来《せきく》る涙を止《とど》めかねたり。
「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑《をかし》な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」
「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡《りようけん》があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父《おとつ》さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母《おつか》さんは私の心を知らないのだから、頼効《たのみがひ》が無い、と謂《い》ふのよ」
「多度《たんと》お言ひな」
「言ふわ」
真顔作れる母は火鉢《ひばち》の縁《ふち》に丁《とん》と煙管《きせる》を撃《はた》けば、他行持《よそゆきもち》の暫《しばら》く乾《から》されて弛《ゆる》みし雁首《がんくび》はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。
第 四 章
頭部に受けし貫一が挫傷《ざしよう》は、危《あやふ》くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体《したい》に数個所《すかしよ》の傷部とともに、その免るべからざる若干《そくばく》の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復《こうふく》の歩を趁《お》ひて、可艱《なやま》しげにも自ら起居《たちゐ》を扶《たす》け得る身となりければ、一日一夜を為《な》す事も無く、ベッドの上に静養を勉《つと》めざるべからざる病院の無聊《ぶりよう》をば、殆《ほとん》ど生きながら葬られたらんやうに倦《う》み困《こう》じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
主治医も、助手も、看護婦も、附添婆《つきそひばば》も、受附も、小使も、乃至《ないし》患者の幾人も、皆目を側《そば》めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁《しげしげ》病《やまひ》を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入《しゆつにゆう》するなれば、噂《うはさ》は自《おのづ》から院内に播《ひろま》りて、博士の某《ぼう》さへ終《つひ》に唆《そそのか》されて、垣間見《かいまみ》の歩をここに枉《ま》げられしとぞ伝へ侍《はべ》る。始の程は何者の美形《びけい》とも得知れざりしを、医員の中に例の困《くるし》められしがありて、名著《なうて》の美人《びじ》クリイムと洩《もら》せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦《よろこば》す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
さりとは彼の暁《さと》るべき由無けれど、何の廉《かど》もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽《おもて》にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂《い》へ、こは情《なさけ》の掛※[#「※」は「(箆−竹−比)/民」、233−17]《かけわな》と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人《ひととなり》を悪《にく》みて、その貌《かたち》の美きを見ず、その思切《おもひせつ》なるを汲まんともせざるに、猶《なほ》かつ主《ぬし》ある身の謬《あやま》りて仇名《あだな》もや立たばなど気遣《きづか》はるるに就けて、貫一は彼の入来《いりく》るに会へば、冷き汗の湧出《わきい》づるとともに、創所《きずしよ》の遽《にはか》に疼《うづ》き立ちて、唯異《ただあやし》くも己《おのれ》なる者の全く痺《しび》らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤《とが》むれども効《かひ》無かりけり。実《げ》に彼は日頃この煩《わづらひ》を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横《よこた》はれれば、宛然《さながら》爼板《まないた》に上れる魚《うを》の如く、空《むなし》く他の為すに委《まか》するのみなる仕合《しあはせ》を、掻※[#「※」は「てへん+劣」、234−7]《かきむし》らんとばかりに悶《もだ》ゆるなり。
かかる苦《くるし》き枕頭《まくらもと》に彼は又驚くべき事実を見出《みいだ》しつつ、飜《ひるが》へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮《およ》べる迷惑は、その藁蒲団《わらぶとん》の内に針《はり》の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分《さんぶ》を患《わづら》ひて、内に却《かへ》つて七分《しちぶ》を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念《けねん》せしが、果して鰐淵《わにぶち》は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略《ほぼ》推《すい》し得たるなり。
例の煩《わづらし》き人は今日も訪《と》ひ来《き》つ、しかも仇《あだ》ならず意《こころ》を籠《こ》めたりと覚《おぼし》き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付《よせつ》けじとやうに彼方《あなた》を向きて、覚めながら目を塞《ふさ》ぎていと静に臥《ふ》したり。附添婆《つきそひばば》の折から出行《いでゆ》きしを候《うかが》ひて、満枝は椅子を躙《にじ》り寄せつつ、
「間《はざま》さん、間さん。貴方《あなた》、貴方」
と枕の端《はし》を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方《あなた》へ廻り行きて、彼の寐顔《ねがほ》を差覗《さしのぞ》きつ。
「間さん」
猶答へざりけるを、軽く肩の辺《あたり》を撼《うごか》せば、貫一はさるをも知らざる為《まね》はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐《なつか》しげに差寄りたる態《かたち》を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私《わたくし》貴方に些《ちよつ》とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在《ゐら》しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
彼の隔《へだて》無く身近に狎《な》るるを可忌《うとま》しと思へば、貫一はわざと寐返《ねがへ》りて、椅子を置きたる方《かた》に向直り、
「どうぞ此方《こちら》へ」
この心を暁《さと》れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇《あつか》はれながら、なほこの人を慕はでは已《や》まぬ我身かと、効《かひ》無くも余に軽く弄《もてあそ》ばるるを可愧《はづかし》うて佇《たたず》みたり。されども貫一は直《すぐ》に席を移さざる満枝の為に、再び言《ことば》を費さんとも為《せ》ざりけり。
気嵩《きがさ》なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「※[#「※」は「口+矣」、236−3]《ああ》、貴方には軽蔑《けいべつ》されてゐる事を知りながら、何為《なぜ》私《わたくし》腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
満枝は彼の枕を捉《とら》へて顫《ふる》ひしが、貫一の寂然《せきぜん》として眼《まなこ》を閉ぢたるに益《ますます》苛《いらだ》ちて、
「余《あんま》り酷《ひど》うございますよ。間さん、何とか有仰《おつしや》つて下さいましな」
彼は堪へざらんやうに苦《にが》りたる口元を引歪《ひきゆが》めて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有《ありがた》迷惑で……」
「何と有仰《おつしや》います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……!!」
満枝は眉《まゆ》を昂《あ》げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼《まなこ》を塞《ふた》ぎぬ。
素《もと》より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己《おのれ》に対しては更に甚《はなはだし》きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管《てくだ》は、今その外《おもて》に顕《あらは》せるやうに決《け》して内に怺《こら》へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍《いさか》ふも、また※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、236−15]《かな》はざる恋の内に聊《いささ》か楽む道なるを思へるなり。涙|微紅《ほのあか》めたる※[#「※」は「目+匡」、236−15]《まぶた》に耀《かがや》きて、いつか宿せる暁《あかつき》の葩《はなびら》に露の津々《しとど》なる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私《わたくし》も貴方に度々《たびたび》来て戴くのは甚《はなは》だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶《うつと》しがつて、如何《いか》に何でもそんなに作《なさ》るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮《こま》つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭《いや》なことを有仰《おつしや》つたのです。私|些《ちつと》もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答《うけこたへ》だに為《せ》ざるなり。
「実は疾《とう》からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭《いや》な事を自分の口から吹聴らしく、却《かへ》つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵|様《さん》のかれこれ有仰《おつしや》るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮《こま》つてをるのでご
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