にくいろがのこ》を掛けたる大円髷《おほまるわげ》より水は滴《た》るばかりに、玉の如き喉《のど》を白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気《かぜけ》などにや、連《しきり》に打咳《うちしはぶ》きつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。その故《ゆゑ》とも覚えず余《あまり》に著《しる》き面羸《おもやつれ》は、唯一目に母が心を驚《おどろか》せり。
 閑《ひま》ある身なれば、宮は月々|生家《さと》なる両親を見舞ひ、母も同じほど訪《と》ひ音づるるをば、此上無《こよな》き隠居の保養と為るなり。信《まこと》に女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎に大《おほい》なる手柄をも成したらんやうに吾が識《し》れるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合《しあはせ》薄くて、有様《ありよう》は気の毒なる人達|哉《かな》、と漫《そぞろ》に己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山の門《かど》を入るは、正《まさ》に人の母たる成功の凱旋門《がいせんもん》を過《すぐ》る心地もすなるべし。
 可懐《なつかし》きと、嬉きと、猶《なほ》今一つとにて、母は得々《いそいそ》と奥に導れぬ。久く垂籠《たれこ》めて友欲き宮は、拯《すくひ》を得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は密《ひそか》に貫一の報を齎《もたら》せるにはあらずやなど、枉《ま》げても念じつつ、せめては愁《うれひ》に閉ぢたる胸を姑《しばら》くも寛《ゆる》うせんとするなり。
 母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措《お》きて、先づ宮が血色の気遣《きづかはし》く衰へたる故を詰《なじ》りぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の羸《やつ》れたるを惧《おそ》れつつも、
「さう? でも、何処《どこ》も悪い所なんぞ有りはしません。余《あんま》り体を動《いご》かさないから、その所為《せゐ》かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱《ふさ》いで鬱いで耐《たま》らない事があるの。あれは血の道と謂《い》ふんでせうね」
「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診《み》てもらふ方が可いよ、放つて措《お》くから畢竟《ひつきよう》持病にもなるのさ」
 宮は唯|頷《うなづ》きぬ。
 母は不図思起してや、さも慌忙《あわただ》しげに、
「後が出来たのぢやないかい」
 宮は打笑《うちゑ》みつ。されども例の可羞《はづか》しとにはあらで傍痛《かたはらいた》き余を微見《ほのみ》せしやうなり。
「そんな事はありはしませんわ」
「さう何日《いつ》までも沙汰《さた》が無くちや困るぢやないか。本当に未《ま》だそんな様子は無いのかえ」
「有りはしませんよ」
「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在《いで》だか知れはしないのだよ。内ぢや又|阿父《おとつ》さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍《おこ》りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭《いや》に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先《せん》の内は子供が所好《すき》だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」
 宮もさすがに当惑しつつ、
「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」
「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専《せん》だよ」
「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診《み》てもらふのも変だし……けれどもね、阿母《おつか》さん、私は疾《とう》から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快《よ》くないの。その所為《せゐ》で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」
 母のその目は※[#「※」は「目+登」、225−17]《みは》り、その膝《ひざ》は前《すす》み、その胸は潰《つぶ》れたり。
「どうしたのさ!」
 宮は俯《うつむ》きたりし顔を寂しげに起して、
「私《わたし》ね、去年の秋、貫一《かんいつ》さんに逢つてね……」
「さうかい!」
 己だに聞くを憚《はばか》る秘密の如く、母はその応《こた》ふる声をも潜めて、まして四辺《あたり》には油断もあらぬ気勢《けはひ》なり。
「何処《どこ》で」
「内の方へも全然《まるきり》爾来《あれから》の様子は知れないの?」
「ああ」
「些《ちつと》も?」
「ああ」
「どうしてゐると云ふやうな話も?」
「ああ」
 かく纔《わづか》に応ふるのみにて、母は自ら湧《わか》せる万感の渦の裏《うち》に陥りてぞゐたる。
「さう? 阿父《おとつ》さんは内証で知つてお在《いで》ぢやなくて?」
「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」
 宮はその梗概《あらまし》を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁《のが》れ得てし始末を詳《つまびら》かにするを俟《ま》ちて、始めて重荷を下したるやうに※[#「※」は「口+孛」、227−1]《ほ》と息を咆《つ》きぬ。実《げ》に彼は熱海の梅園にて膩汗《あぶらあせ》を搾《しぼ》られし次手《ついで》悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍《ふびん》とも、惨《いぢら》しとも、今更に親心を傷《いた》むるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大|障礙《しようげ》の或《あるひ》は来《きた》るべきを案じて、母はなかなか心穏《こころおだやか》ならず、
「さうして貫一はどうしたえ」
「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」
「ああそれから?」
「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采《なり》をして、何だか大変|羸《やつ》れて、私も極《きまり》が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄《みすぼらし》い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵《わにぶち》とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処《そこ》に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処《いつしよ》に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」
 彼は襦袢《じゆばん》の袖《そで》の端《はし》に窃《そ》と※[#「※」は「目+匡」、227−14]《まぶた》を※[#「※」は「沙/手」、227−14]《す》りて、
「好い心持はしないわ、ねえ」
「へええ、そんなになつてゐるのかね」
 母の顔色も異《あやし》き寒さにや襲はるると見えぬ。
「それまでだつて、憶出《おもひだ》さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭《いや》な夢なんぞを度々《たびたび》見るの。阿父《おとつ》さんや、阿母《おつか》さんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難《にく》いやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終《しよつちゆう》苦になる所為《せゐ》で気を傷《いた》めるから体にも障《さは》るのぢやないかと、さう想ふのです」
 思凝《おもひこら》せるやうに母は或方を見据ゑつつ、言《ことば》は無くて頷《うなづ》きゐたり。
「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの――あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧《やつぱり》鴫沢《しぎさわ》の跡は貫一さんに取《とら》して下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方《ゆきがた》が知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直《ぢき》に分るのだから、それを抛《はふ》つて措《お》いちや此方《こつち》が悪いから、阿父さんにでも会つて貰《もら》つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通《これまでどほり》に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家《うち》の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃《さかづき》をして、何処までも生家《さと》の兄さんで、末始終力になつて欲いわ」
 宮がこの言《ことば》は決して内に自ら欺き、又敢て外に他《ひと》を欺くにはあらざりき。影とも儚《はかな》く隔《へだて》の関の遠き恋人として余所《よそ》に朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀《こひねが》へるなり。
「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能《よ》くお言ひのさ、如何《いか》に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古《ほご》にしたと云ふので、齢《とし》の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些《ちつと》は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所《どこ》を些《ちつ》と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵《つらあて》がましい仕打振をするつてが有るものかね。
 それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独《ひとり》で勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初《かりそめ》にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望《のぞみ》なら洋行も為《さ》せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰《ばち》も当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰《まけ》に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低《さ》げないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方《こつち》には少しも無理は無い筈《はず》だのに、貫一が余《あんま》り身の程を知らな過《すぎ》るよ。
 それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返《おんがへし》なら、行処《ゆきどこ》の無い躯《からだ》を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。
 全く、お前、貫一の為方《しかた》は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛《かはゆ》くはないのだからね、今更|此方《こつち》から捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」
 その不見識とやらを嫌《きら》ふよりは、別に嫌ふべく、懼《おそ》るべく、警《いまし》むべき事あらずや、と母は私《ひそか》に慮《おもひはか》れるなり。
「阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅《なくな》るのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」
 かく言出でし宮が胸は、ここに尽《ことごと》くその罪
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