り。貫一は知らざる如く、彼方《あなた》を向きて答へず。仔細《しさい》こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍《よそ》に見つつも憫《あはれ》に可笑《をかし》かりき。
「貫一さんや、私《わし》だ。疾《とう》にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然《さつぱり》知れんので。一昨日《おとつひ》ふと聞出したから不取敢《とりあへず》かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我《おほけが》ださうではないか」
 猶《なほ》も答のあらざるを腹立《はらだたし》くは思へど、満枝の居るを幸《さいはひ》に、
「睡《ね》てをりますですかな」
「はい、如何《いかが》でございますか」
 彼はこの長者の窘《くるし》めるを傍《よそ》に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺《うかが》へば、涙の顔を褥《しとね》に擦付《すりつ》けて、急上《せきあ》げ急上げ肩息《かたいき》してゐたり。何事とも覚えず驚《おどろか》されしを、色にも見せず、怪まるるをも言《ことば》に出《いだ》さず、些《ちと》の心着さへあらぬやうに擬《もてな》して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向|識《し》らん方なのですから、お還し申して下さい」
 彼は面《おもて》を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推《すい》して、また多くは問はず席に復《かへ》りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰《おつしや》るのでございます」
 長き髯《ひげ》を推揉《おしも》みつつ鴫沢は為方無《せんかたな》さに苦笑《にがわらひ》して、
「人違とは如何《いか》なことでも! 五年や七年会はんでも私《わし》は未《ま》だそれほど老耄《ろうもう》はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些《ちよつ》とでも会うて貰ひませう」
 挨拶《あいさつ》如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、能《よ》う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来《これまで》の為方《しかた》、又今日のこの始末は、ちと妥当《おだやか》ならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁《をぢ》に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少《すこし》く言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方《こちら》では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決《けつ》して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方《そちら》の身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切《ろうばしんせつ》。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又|今日《こんにち》も五年前も同じ考量《かんがへ》で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日《こんにち》までも誤解されてゐるのは愈《いよい》よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡《およ》そ此方《こちら》の了簡《りようけん》を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀《はか》つて、さうして僅《わづか》の行違《ゆきちがひ》から恨まれる、恩に被《き》せうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰《たれ》にしても思はん。で、ああして睦《むつまし》う一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意《つもり》であつたものを、僅の行違から音信不通《いんしんふつう》の間《なか》になつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私《わし》も誠に寐覚《ねざめ》が悪からうと謂ふもの、実に姨《をば》とも言暮してゐるのだ。私の方では何処《どこ》までも旧通《もとどほ》りになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈《と》けんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直《ぢき》に訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣《まゐ》つて、のう、抑《そもそ》もお前さんを引取つてから今日《こんにち》までの来歴を在様陳《ありようの》べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方がウい、と丁《ちやん》とお分疏《ことわり》を言うて、そして私は私の一分《いちぶん》を立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便《たより》を為《せ》んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。
 私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁《をぢ》の為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何《いか》にも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当《おだやか》に事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処《そこ》だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様《いかさま》手落があつたで、その詫《わび》も言はうし、又昔も今も此方《こちら》には心持に異変《かはり》は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日《こんにち》は何も言はずに清う会うてくれ」
 曾《かつ》て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇《あやし》き興を覚えて耳を傾けぬ。
 我強《がづよ》くも貫一のなほ言《ものい》はんとはせざるに、漸《やうや》く怺《こら》へかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強《し》ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言《ことば》を尽せるにも理《ことわり》聞えて、無下《むげ》に打《うち》も棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出《いだ》さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂《いはれ》はあらんと推測《おしはから》るれば、一も二も無く満枝は恋人に与《くみ》してこの場の急を拯《すく》はんと思へるなり。
 枕頭《まくらもと》を窺《うかが》ひつつ危む如く眉を攅《あつ》めて、鴫沢の未《いま》だ言出でざる時、
「私《わたくし》看病に参つてをります者でございますが、何方様《どなたさま》でゐらつしやいますか存じませんが、この一両日《いちりようにち》病人は熱の気味で始終|昏々《うとうと》いたして、時々|譫語《うはごと》のやうな事を申して、泣いたり、慍《おこ》つたり致すのでございますが、……」
 頭を捻向《ねぢむ》けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時|故《ことさら》に解きたりと見えぬ。
「はあ、は、さやうですかな」
「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直《ぢき》に除《と》れまするさうでございますから、又改めてお出《いで》を願ひたう存じます。今日《こんにち》は私御名刺を戴《いただ》いて置きまして、お軽快《こころよく》なり次第私から悉《くはし》くお話を致しますでございます」
「はあ、それはそれは」
「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方《しかた》もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日《こんにち》は又|如何《いかが》致したのでございますか、昨日とは全《まる》で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇《むやみ》なことを申されるよりは始末が宜《よろし》いでございます」
 かくても始末は善しと謂ふかと、翁《をぢ》は打蹙《うちひそ》むべきを強《し》ひて易《か》へたるやうの笑《ゑみ》を洩《もら》せば、満枝はその言了《いひをは》せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦《すす》めて、再び客を席に着かしめぬ。
「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌《しる》してあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵《わにぶち》さんの御親戚ででも?」
「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」
「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶《もら》うたと聞きましたが、如何《いかが》いたしましたな」
 彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。
「さやうな事はついに存じませんですが」
「はて、さうとばかり思うてをりましたに」
 容儀《かたち》人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲《きらきら》しう装飾《よそほひかざ》れる様は色を売る儔《たぐひ》にやと疑はれざるにはあらねど、言辞《ものごし》行儀の端々《はしはし》自《おのづか》らさにもあらざる、畢竟《ひつきよう》これ何者と、鴫沢は容易にその一斑《いつぱん》をも推《すい》し得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆|詐《いつはり》ならんとは想ひぬ。正《ただし》き筋の知辺《しるべ》にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若《も》しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根《しようね》も腐れ、身持も頽《くづ》れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋《つな》ぐべきものにあらず。如此《かくのごと》き輩《やから》を出入《でいり》せしむる鴫沢の家は、終《つひ》に不慮の禍《わざはひ》を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中|遽《にはか》に懼《おそれ》を生じて、さては彼の恨深く言《ことば》を容《い》れざるを幸《さいはひ》に、今日《こんにち》は一先《ひとまづ》立還《たちかへ》りて、尚《な》ほ一層の探索と一番の熟考とを遂《と》げて後、来《きた》る可《べ》くは再び来らんも晩《おそ》からず、と失望の裏《うち》別に幾分の得るところあるを私《ひそか》に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私《わたくし》は」と紫根塩瀬《しこんしほぜ》の手提の中《うち》より小形の名刺を取出だして、
「甚《はなは》だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝《あかがしみつえ》さまと有仰《おつしや》いますか」
 この女の素性に於《お》ける彼の疑は益《ますます》暗くなりぬ。夫有《つまも》てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無《にげな》し、まして裏面《うら》に横文字を入れたるは、猶可慎《なほつつまし》からず。応対の雍《しとやか》にして人馴《ひとな》れたる、服装《みなり》などの当世風に貴族的なる、或《あるひ》は欧羅巴《ヨウロッパ》的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余《あまり》に色美《いろよ》きが、又さる際《きは》には相応《ふさはし》からずも覚えて、こは終《つひ》に一題の麗《うるはし》き謎《なぞ》を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇《ぶあしらひ》に慍《いきどほ》るをも忘れて、この謎《なぞ》の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
 客を送り出でて満枝の内に入来《いりきた》れば、ベッドの上に貫一の居丈高《ゐたけだか》に起直りて、痩尽《やせすが》れたる拳《こぶし》を握りつつ、咄々《とつとつ》、言はで忍びし無念に堪へずして、独《ひと》り疾視《しつし》の瞳《ひとみ》を凝《こら》すに会へり。

     第 六 
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