ひ、それは※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、212−5]《かな》はずなりてより、せめて一筆《ひとふで》の便《たより》聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾《すべ》て違《たが》ひて、さしも願はぬ一事《いちじ》のみは玉を転ずらんやうに何等の障《さはり》も無く捗取《はかど》りて、彼が空《むなし》く貫一の便《たより》を望みし一日にも似ず、三月三日は忽《たちま》ち頭《かしら》の上に跳《をど》り来《きた》れるなりき。彼は終《つひ》に心を許し肌身《はだみ》を許せし初恋《はつごひ》を擲《なげう》ちて、絶痛絶苦の悶々《もんもん》の中《うち》に一生最も楽《たのし》かるべき大礼を挙げ畢《をは》んぬ。
 宮は実に貫一に別れてより、始めて己《おのれ》の如何《いか》ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
 彼の出《い》でて帰らざる恋しさに堪《た》へかねたる夕《ゆふべ》、宮はその机に倚《よ》りて思ひ、その衣《きぬ》の人香《ひとか》を嗅《か》ぎて悶《もだ》え、その写真に頬摩《ほほずり》して憧《あくが》れ、彼|若《も》し己《おのれ》を容《い》れて、ここに優き便《たより》をだに聞《きか》せなば、親をも家をも振捨てて、直《ただち》に彼に奔《はし》るべきものをと念へり。結納《ゆいのう》の交《かは》されし日も宮は富山唯継を夫《つま》と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終《つひ》にその家に適《ゆ》くべき身たるを忘れざりしなり。
 ほとほと自らその緒《いとぐち》を索《もと》むる能《あた》はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過《あやまち》を改め、操《みさを》を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真《まこと》に彼の胸に恃《たの》める覚悟とてはあらざりき。恋|佗《わ》びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強《し》ひて今更|否《いな》まんとするにもあらず、彼方《かなた》の恋《こひし》きを思ひ、こなたの富めるを愛《をし》み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空《むなし》き迷《まよひ》に弄《もてあそ》ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来《きた》るに会へるなり。
 この日よ、この夕《ゆふべ》よ、更《ふ》けて床盃《とこさかづき》のその期《ご》に※[#「※」は「しんにょう+台」、213−4]《およ》びても、怪《あやし》むべし、宮は決して富山唯継を夫《つま》と定めたる心は起らざるにぞありける、止《ただ》この人を夫《つま》と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂《おも》へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委《まか》すなり。故《ゆゑ》に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂《おも》へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免《まぬか》る能《あた》はざる約束なるべきを信じて、寧《むし》ろ深く怪むにもあらざりき。如此《かくのごとく》にして宮は唯継の妻となりぬ。
 花聟君《はなむこぎみ》は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙《あ》げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝《まさ》るままに、いよいよ意中の人と私《わたくし》すべき陰無くなりゆくを見て、愈《いよい》よ楽まざる心は、夫《つま》の愛を承くるに慵《ものう》くて、唯《ただ》機械の如く事《つか》ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言《ものい》ふ花の姿、温き玉の容《かたち》を一向《ひたぶる》に愛《め》で悦《よろこ》ぶ余に、冷《ひやや》かに空《むなし》き器《うつは》を抱《いだ》くに異らざる妻を擁して、殆《ほとん》ど憎むべきまでに得意の頤《おとがひ》を撫《な》づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊《みごも》りて、翌年の春美き男子《なんし》を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒《い》ゆる日を竣《ま》たで、初子《うひご》はいと弱くて肺炎の為に歿《みまか》りにけり。
 子を生みし後も宮が色香はつゆ移《うつろ》はずして、自《おのづか》ら可悩《なやまし》き風情《ふぜい》の添《そは》りたるに、夫《つま》が愛護の念は益《ますます》深く、寵《ちよう》は人目の見苦《みぐるし》きばかり弥《いよい》よ加《くはは》るのみ。彼はその妻の常に楽《たのし》まざる故《ゆゑ》を毫《つゆ》も暁《さと》らず、始より唯その色を見て、打沈《うちしづ》みたる生得《うまれ》と独合点《ひとりがてん》して多く問はざるなりけり。
 かく怜《いとし》まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有《ありがた》き人の情《なさけ》に負《そむ》きて、ここに嫁《とつ》ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過《あやまち》は如何《いか》にすべきと、躬《みづか》らその容《ゆる》し難きを慙《は》ぢて、悲むこと太甚《はなはだし》かりしが、実《げ》に親の所憎《にくしみ》にや堪《た》へざりけん。その子の失《う》せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年《ふたとせ》の後《のち》、三年《みとせ》の後、四年《よとせ》の後まで異《あやし》くも宮はこの誓を全うせり。
 次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに苦《くるし》めるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる効《かひ》も思出もあらで、空《むなし》く籠鳥《ろうちよう》の雲を望める身には、それのみの願なりし裕《ゆたか》なる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、却《かへ》りてこの四年《よとせ》が間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方《ゆくへ》知れざりし人の姿を田鶴見《たずみ》の邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰《おとさた》をも聞かざりしなり。生家《さと》なる鴫沢《しぎさわ》にては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無《よしな》き事を告ぐるが如き愚《おろか》なる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便《たより》は絶れたりしなり。
 計らずもその夢寐《むび》に忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計《いかばかり》なりけんよ。饑《う》ゑたる者の貪《むさぼ》り食《くら》ふらんやうに、彼はその一目にして四年《よとせ》の求むるところを求めんとしたり。※[#「※」は「厭/食」、214−15]《あ》かず、※[#「※」は「厭/食」、読みは「あ」、214−15]かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已《や》まん、と深くも念じたり。
 五番町なる鰐淵《わにぶち》といふ方《かた》に住める由は、静緒《しずお》より聞きつれど、むざとは文《ふみ》も通はせ難く、道は遠からねど、独《ひと》り出でて彷徨《さまよ》ふべき身にもあらぬなど、克《かな》はぬ事のみなるに苦《くるし》かりけれど、安否を分《わ》かざりし幾年《いくとせ》の思に較《くら》ぶれば、はや嚢《ふくろ》の物を捜《さぐ》るに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然《つれづれ》を憂きに堪へざる余《あまり》、我心を遺《のこ》る方《かた》無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、止《た》だかくも儚《はかな》き身の上と切なき胸の内とを独《ひとり》自ら愬《うつた》へんとてなり。

     (二) の 二

 宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる能《あた》はざるなり。更に見よ。歳々《としどし》廻来《めぐりく》る一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に烙《やきがね》して、彼の悔を新にするにあらずや。
「十年|後《のち》の今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処《どこ》かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」
 掩《おほ》へども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかを試《こころみ》しに、曾《かつ》てその人の余所《よそ》に泣ける徴《しるし》もあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共《もろとも》に今は我をも思はでや、さては何処《いづこ》に如何《いか》にしてなど、更に打歎《うちなげ》かるるなりき。
 例のその日は四《よ》たび廻《めぐ》りて今日しも来《きた》りぬ。晴れたりし空は午後より曇りて少《すこし》く吹出《ふきい》でたる風のいと寒く、凡《ただ》ならず冷《ひ》ゆる日なり。宮は毎《いつ》よりも心煩《こころわづらはし》きこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為《し》たりしが、余《あまり》に思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。
 益《ますま》す寒威の募るに堪へざりければ、遽《にはか》に煖炉《だんろ》を調ぜしめて、彼は西洋間に徙《うつ》りぬ。尽《ことごと》く窓帷《カアテン》を引きたる十畳の間《ま》は寸隙《すんげき》もあらず裹《つつ》まれて、火気の漸《やうや》く春を蒸すところに、宮は体《たい》を胖《ゆたか》に友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の長襦袢《ながじゆばん》の褄《つま》を蹈披《ふみひら》きて、緋《ひ》の紋緞子《もんどんす》張の楽椅子《らくいす》に凭《よ》りて、心の影の其処《そこ》に映るを眺《なが》むらんやうに、その美き目をば唯白く坦《たひら》なる天井に注ぎたり。
 夫の留守にはこの家の主《あるじ》として、彼は事《つか》ふべき舅姑《きゆうこ》を戴《いただ》かず、気兼すべき小姑《こじうと》を抱《かか》へず、足手絡《あしてまとひ》の幼きも未《ま》だ有らずして、一箇《ひとり》の仲働《なかばたらき》と両箇《ふたり》の下婢《かひ》とに万般《よろづ》の煩《わづらはし》きを委《まか》せ、一日何の為《な》すべき事も無くて、出《い》づるに車あり、膳《ぜん》には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆|悦《よろこ》ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実《げ》に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正《まさ》に己《おのれ》のこの身の上なる哉《かな》、と宮は不覚《そぞろ》胸に浮べたるなり。
 嗟乎《ああ》、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余《あまり》に、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮《きは》めし楽《たのしみ》も、五年《いつとせ》の昔なりける今日の日に窮《きは》めし悲《かなしみ》に易《か》ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息《ためいき》したり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶《とも》に同じき楽《たのしみ》を享《う》けんと願ひしに外ならざるを。若《も》し身の楽《たのしみ》と心の楽《たのしみ》とを併享《あはせう》くべき幸無《さちな》くて、必ずその一つを択《えら》ぶべきものならば、孰《いづれ》を取るべきかを知ることの晩《おそ》かりしを、遣方《やるかた》も無く悔ゆるなりけり。
 この寒き日をこの煖《あたたか》き室《しつ》に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何《いか》に、と思到れる時、宮は殆《ほとん》ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜《くちを》しさを悶《もだ》えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面《そとも》を何心無く打見遣《うちみや》れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇《はげし》く動きて、宮は降頻《ふりしき》る雪に或言《あることば》を聴くが如く佇《たたず》めり。折から唯継は還来《かへりきた》りぬ。静に啓《あ》けたる闥《ドア》の響は絶《したたか》に物思へる宮の耳には入《い》らざりき。氷の如く冷徹《ひえわた》りたる手をわりなく懐《ふところ》に差入れらるるに驚き、咄嗟《あなや》と見向かんとすれば、後より緊《しか》と抱《かか》へられたれど、夫の常に飭《たしな》める香水の薫《かをり》は隠るべくもあらず。
「おや、お帰来《かへり》でございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りま
前へ 次へ
全71ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング