て了うてからに手を退《ひ》くやうな了簡《りようけん》であつたら、国は忽《たちま》ち亡《ほろぶ》るじや――社会の事業は発達せんじや。さうして国中《こくちゆう》若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。
 俺にそんなに財《かね》を拵《こしら》へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為《せ》ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟《つまり》財を拵へるが極《きは》めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好《え》え加減に為《せ》い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
 お前は能《よ》うこの家業を不正ぢやの、汚《けがらはし》いのと言ふけど、財を儲《まう》くるに君子の道を行うてゆく商売が何処《どこ》に在るか。我々が高利の金を貸す、如何《いか》にも高利じや、何為《なぜ》高利か、可《え》えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐《いつは》つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚《けがらはし》いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯《すく》はにや措《おか》れんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則《すなは》ち営業の魂《たましひ》なんじや。
 財《かね》といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念《おも》うとる、獲たら離すまいと為《し》とる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総《すべ》ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲《かねまうけ》する者は皆不正な事をしとるんじや」
 太《いた》くもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡《しばし》ば直道の顔を偸視《ぬすみみ》て、あはれ彼が理窟《りくつ》もこれが為に挫《くじ》けて、気遣《きづか》ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私《ひそか》に懽《よろこ》べり。
 直道は先《ま》づ厳《おごそか》に頭《かしら》を掉《ふ》りて、
「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私《わたし》は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入《つけい》つて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! 譬《たと》へば間が災難に遭《あ》つた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃《くは》したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返《いしゆがへし》の為方とお思ひなさるか。卑劣|極《きはま》る奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」
 彼は声を昂《あ》げて逼《せま》れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮《しづ》めて、
「どうですか」
「勿論《もちろん》」
「勿論? 勿論ですとも! 何奴《なにやつ》か知らんけれど、実に陋《きたな》い根性、劣《けち》な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設《たと》ひその手段は如何《いか》にあらうとも」
 父は騒がず、笑《ゑみ》を含みて赤き髭《ひげ》を弄《まさぐ》りたり。
「卑劣と言れやうが、陋《きたな》いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺《つかみころ》しても遣りたいほど悔《くやし》いのは此方《こつち》ばかり。
 阿父《おとつ》さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方《あなた》がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」
 又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言《ことば》をもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理《ことわり》の覿面《てきめん》当然なるに口を開かんやうも無きにと、心|慌《あわ》てつつ夫の気色を密《ひそか》に窺《うかが》ひたり。彼は自若として、却《かへ》つてその子の善く論ずるを心に愛《め》づらんやうの面色《おももち》にて、転《うた》た微笑を弄《ろう》するのみ。されども妻は能《よ》く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡《しばしば》するを。彼は今それか非《あら》ぬかを疑へるなり。
 蒼《あを》く羸《やつ》れたる直道が顔は可忌《いまはし》くも白き色に変じ、声は甲高《かんだか》に細りて、膝《ひざ》に置ける手頭《てさき》は連《しき》りに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来《これまで》も度々《たびたび》言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆|阿父《おとつ》さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在《いで》は無からうけれど、考出《かんがへだ》すと勉強するのも何も可厭《いや》になつて、吁《ああ》、いつそ山の中へでも引籠《ひつこ》んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤《いやし》んで、附合ふのも耻《はぢ》にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞《きか》される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終《つひ》には容《い》れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方《こつち》に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺《みちばた》に餓死《かつゑじに》するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎《うとま》れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」
 眼《まなこ》は痛恨の涙を湧《わか》して、彼は覚えず父の面《おもて》を睨《にら》みたり。直行は例の嘯《うそぶ》けり。
 直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言《ことば》を止《や》めず。
「今度の事を見ても、如何《いか》に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方《あなた》の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎《にくみ》はどんなであるか言ふに忍びない」
 父は忽《たちま》ち遮《さへぎ》りて、
「善し、解つた。能《よ》う解つた」
「では私の言《ことば》を用ゐて下さるか」
「まあ可《え》え。解つた、解つたから……」
「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。然《しか》し、爾《なんぢ》は爾たり、吾は吾たりじや」
 直道は怺《こら》へかねて犇《ひし》と拳《こぶし》を握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空《あだ》には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉《ま》げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更《なほさら》劇《えら》い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
 はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりや辱《かたじけな》いが、ま、当分俺の躯《からだ》は俺に委《まか》して置いてくれ」
 彼は徐《しづか》に立上りて、
「些《ちよつ》とこれから行《い》て来にやならん処があるで、寛《ゆつく》りして行くが可《え》え」
 忽忙《そそくさ》と二重外套《にじゆうまわし》を打被《うちかつ》ぎて出《い》づる後より、帽子を持ちて送《おく》れる妻は密《ひそか》に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺《しわ》めて、
「俺が居ると面倒ぢやから、些《ちよつ》と出て来る。可《え》えやうに言うての、還《かへ》してくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方《あなた》、私《わたし》だつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
「可《よ》くはありません、私は困りますよ」
 お峯は足摩《あしずり》して迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
 さすがに争ひかねてお峯の渋々|佇《たたず》めるを、見も返らで夫は驀地《まつしぐら》に門《かど》を出でぬ。母は直道の勢に怖《おそ》れて先にも増してさぞや苛《さいな》まるるならんと想へば、虎《とら》の尾をも履《ふ》むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯《と》見れば、直道は手を拱《こまぬ》き、頭《かしら》を低《た》れて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食《ひる》だが、お前何をお上りだ」
 彼は身転《みじろぎ》も為《せ》ざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束《おぼつか》なげに顔を挙《あ》げて、
「阿母《おつか》さん!」
 その術無《じゆつな》き声は謂知《いひし》らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭《まくらもと》に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
 異《あやし》くも遽《にはか》に名残《なごり》の惜《をしま》れて、今は得も放《はな》たじと心牽《こころひか》るるなり。
「もうお中食《ひる》だから、久しぶりで御膳《ごぜん》を食べて……」
「御膳も吭《のど》へは通りませんから……」

     第 二 章

 主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外《ほか》、身辺に事あらざる暇《いとま》に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
 一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択《えら》びて富山の家に輿入《こしいれ》したりき。その場より貫一の失踪《しつそう》せしは、鴫沢一家《しぎさわいつけ》の為に物化《もつけ》の邪魔払《じやまばらひ》たりしには疑無《うたがひな》かりけれど、家内《かない》は挙《こぞ》りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠《こ》めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺《よるべ》あらぬ貫一が身の安否を慮《おもひはか》りて措《お》く能《あた》はざりしなり。
 気強くは別れにけれど、やがて帰り来《こ》んと頼めし心待も、終《つひ》に空《あだ》なるを暁《さと》りし後、さりとも今一度は仮初《かりそめ》にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬《あふせ》は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方《ゆくへ》は知られずして、その身の家を出《い》づべき日は潮《うしほ》の如く迫れるに、遣方《やるかた》も無く漫《そぞろ》惑ひては、常に鈍《おぞまし》う思ひ下せる卜者《ぼくしや》にも問ひて、後には廻合《めぐりあ》ふべきも、今はなかなか文《ふみ》に便《たより》もあらじと教へられしを、筆持つは篤《まめ》なる人なれば、長き長き怨言《うらみ》などは告来《つげこ》さんと、それのみは掌《たなごころ》を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言《ことば》は不幸にも過《あやま》たで、宮は彼の怨言《うらみ》をだに聞くを得ざりしなり。
 とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念《おも》
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