だい、君の目的は」
「唯|貨《かね》が欲いのです」
「で、その貨をどうする」
「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」
風「まあ、これを一盃《いつぱい》飲んで、今日は機嫌《きげん》好く帰つてくれ給へ」
蒲「そら、お取次だ」
「私《わたくし》は酒は不可《いかん》のです」
蒲「折角差したものだ」
「全く不可のですから」
差付けらるるを推除《おしの》くる機《はずみ》に、コップは脆《もろ》くも蒲田の手を脱《すべ》れば、莨盆《たばこぼん》の火入《ひいれ》に抵《あた》りて発矢《はつし》と割れたり。
「何を為る!」
貫一も今は怺《こら》へかねて、
「どうしたと!」
やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板《むないた》を衝《つか》れて、一耐《ひとたまり》もせず仰様《のけさま》に打僵《うちこ》けたり。蒲田はこの隙《ひま》に彼の手鞄《てかばん》を奪ひて、中なる書類を手信《てまかせ》に掴出《つかみだ》せば、狂気の如く駈寄《かけよ》る貫一、
「身分に障《さは》るぞ!」と組み付くを、利腕捉《ききうでと》つて、
「黙れ!」と捩伏《ねぢふ》せ、
「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴《そいつ》を取つて了ひ給へ」
これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余《あまり》に暴なるを快《こころよ》しと為ざるなりき。貫一は駭《おどろ》きて、撥返《はねかへ》さんと右に左に身を揉むを、蹈跨《ふんまたが》りて捩揚《ねぢあ》げ捩揚げ、蒲田は声を励して、
「この期《ご》に及んで! 躊躇《ちゆうちよ》するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」
手を出しかねたる二人を睨廻《ねめまは》して、蒲田はなかなか下に貫一の悶《もだ》ゆるにも劣らず、独《ひと》り業《ごう》を沸《にや》して、効無《かひな》き地鞴《ぢただら》を踏みてぞゐたる。
風「それは余り遣過ぎる、善《よ》くない、善くない」
「善《い》いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を※[#「※」は「りっしんべん+(夢−夕)/目」、173−9]然《ぼんやり》してゐるのだ」
彼はほとほと慄《をのの》きて、寧《むし》ろ蒲田が腕立《うでだて》の紳士にあるまじきを諌《いさ》めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与《くみ》するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入《い》りながら手を空《むなし》うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上《ねぢあぐ》れば、
「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」
「ええ聒《やかまし》い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独《ひとり》で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」
かく言捨てて蒲田は片手して己《おのれ》の帯を解かんとすれば、時計の紐《ひも》の生憎《あやにく》に絡《からま》るを、躁《あせ》りに躁りて引放さんとす。
風「独《ひとり》でどうするのだよ」
彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。
蒲「どうするものか、此奴《こいつ》を蹈縛《ふんじば》つて置いて、僕が証書を探すわ」
「まあ、余り穏《おだやか》でないから、それだけは思ひ止《とま》り給へ。今間も話を付けると言つたから」
「何か此奴《こいつ》の言ふ事が!」
間は苦《くるし》き声を搾《しぼ》りて、
「きつと話を付けるから、この手を釈《ゆる》してくれ給へ」
風「きつと話を付けるな――此方《こつち》の要求を容《い》れるか」
間「容れる」
詐《いつはり》とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫《ちからくじ》けて、竟《つひ》に貫一を放ちてけり。
身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚《かきあつ》め、鞄《かばん》を拾ひてその中に捩込《ねぢこ》み、さて慌忙《あわただし》く座に復《かへ》りて、
「それでは今日《こんにち》はこれでお暇《いとま》をします」
蒲田が思切りたる無法にこの長居は危《あやふ》しと見たれば、心に恨は含みながら、陽《おもて》には克《かな》はじと閉口して、重ねて難題の出《い》でざる先にとかくは引取らんと為るを、
「待て待て」と蒲田は下司扱《げすあつかひ》に呼掛けて、
「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容《い》れん内は、今度は此方《こつち》が還《かへ》さんぞ」
膝推向《ひざおしむ》けて迫寄《つめよ》る気色《けしき》は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。
「きつと要求は容れますけれど、嚮《さつき》から散々の目に遭《あは》されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座《ちようざ》をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
忽《たちま》ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑《あざわらひ》して、
「間、貴様は犬の糞《くそ》で仇《かたき》を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今《これから》毎《いつ》でも蒲田が現れて取挫《とりひし》いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇《かたき》は取らない」
「利《き》いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処《そこ》まで送らう」
遊佐と風早とは起ちて彼を送出《おくりいだ》せり。主《あるじ》の妻は縁側より入《い》り来《きた》りぬ。
「まあ、貴方《あなた》、お蔭様で難有《ありがた》う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些《ちよつ》と壮士《そうし》芝居といふところを」
「大相|宜《よろし》い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
件《くだん》の騒動にて四辺《あたり》の狼藉《ろうぜき》たるを、彼は効々《かひかひ》しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来《いりく》るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方|御寛《ごゆる》り召上つて下さいまし」
妻の喜は溢《あふ》るるばかりなるに引易《ひきか》へて、遊佐は青息《あをいき》※[#「※」は「口+句」、176−4]《つ》きて思案に昏《く》れたり。
「弱つた! 君がああして取緊《とつち》めてくれたのは可いが、この返報に那奴《あいつ》どんな事を為るか知れん。明日《あした》あたり突然《どん》と差押《さしおさへ》などを吃《くは》せられたら耐《たま》らんな」
「余り蒲田が手酷《てひど》い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々《はらはら》してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前《あとさき》を考へて遣つてくれなくては他迷惑《はためいわく》だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
蒲田は袂《たもと》の中を撈《かいさぐ》りて、揉皺《もめしわ》みたる二通の書類を取出《とりいだ》しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」
何ならんと主《あるじ》の妻も鼻の下を延べて窺《うかが》へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
彼は先づその一通を取りて披見《ひらきみ》るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
二人は蒲田が案外の物持てるに驚《おどろか》されて、各《おのおの》息を凝《こら》して※[#「※」は「目+登」、176−17]《みは》れる眼《まなこ》を動さず。蒲田も無言の間《うち》に他の一通を取りて披《ひら》けば、妻はいよいよ近《ちかづ》きて差覗《さしのぞ》きつ。四箇《よつ》の頭顱《かしら》はラムプの周辺《めぐり》に麩《ふ》に寄る池の鯉《こひ》の如く犇《ひし》と聚《あつま》れり。
「これは三百円の証書だな」
一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前《さき》なる遊佐良橘の名をも署《しる》したり、蒲田は弾機仕掛《ばねじかけ》のやうに躍《をど》り上りて、
「占めた! これだこれだ」
驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤《しやも》の鉢《はち》の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭《ひざがしら》に銚子《ちようし》を薙倒《なぎたふ》して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋《きん》の活動《はたらき》を失へるやうにて幾度《いくたび》も捉《とら》へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽《たちま》ち胸塞《むねふたが》りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈《ふ》むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ!! 難有《ありがた》い!!!」
証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六《むつ》の目を以《も》て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明《あきら》めたり。
「君はどうしたのだ」
風早の面《おもて》はかつ呆《あき》れ、かつ喜び、かつ懼《をそ》るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒《ビイル》の満《まん》を引きし蒲田は「血は大刀に滴《したた》りて拭《ぬぐ》ふに遑《いとま》あらざる」意気を昂《あ》げて、
「何と凄《すご》からう。奴を捩伏《ねぢふ》せてゐる中に脚《あし》で掻寄《かきよ》せて袂《たもと》へ忍ばせたのだ――早業《はやわざ》さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝《きようげべつでん》さ」
「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治《たいじ》る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘《ねら》ふ敵《かたき》の証書ならんとは、全く天の善に与《くみ》するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方《こつち》へ取つて了へば、三百円は蹈《ふ》めるのかね」
蒲「大蹈《おほふ》め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無《さしつかへな》い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本《せいほん》さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動《じたばた》したつて『河童《かつぱ》の皿に水の乾《かわ》いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然《まるまる》蹈むのもさすがに不便《ふびん》との思召《おぼしめし》を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜《よろし》く樽爼《そんそ》の間《かん》に折衝して、遊佐家を泰山《たいざん》の安きに置いて見せる。嗚呼《ああ》、実に近来の一大快事だ!」
人々の呆《あき》るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴《おしいただ》き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方《あなた》が音頭《おんど》をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒《らち》開けんといふに励されて、さては一生の怨敵《おんてき》退散の賀《いはひ》と、各《おのおの》漫《そぞろ》に前《すす》む膝を聚《あつ》めて、長夜《ちようや》の宴を催さんとぞ犇《ひしめ》いたる。
第 七 章
茫々《ぼうぼう》たる世間に放れて、蚤《はや》く骨肉の親むべき無く、況《いはん》や愛情の温《あたた》むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然《かいぜん》として横《よこた》はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢《しぎさわ》の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔《やはらか》き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽《たのしみ》をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊《あきた》らず、母の一部分と
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