彼の面《おもて》を注視せし風早と蒲田との眼《まなこ》は、更に相合うて瞋《いか》れるを、再び彼方《あなた》に差向けて、いとど厳《きびし》く打目戍《うちまも》れり。
風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」
貫「それでは遊佐さん、これに御印《ごいん》を願ひませう。日限《にちげん》は十六日、宜《よろし》うございますか」
 この傍若無人の振舞に蒲田の怺《こら》へかねたる気色《けしき》なるを、風早は目授《めまぜ》して、
「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方《ほう》が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所《いつしよ》に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関《かか》る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何《いかに》とも手の着けやうが無い。対手《あいて》が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯《すく》ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然《まるまる》損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決《け》してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」
「私《わたくし》は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日《こんにち》はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」
 遊佐はその独《ひとり》に計ひかねて覚束《おぼつか》なげに頷《うなづ》くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒《いかり》はこの時|衝《つ》くが如く、
「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸《す》くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰《ぜにもらひ》が門《かど》に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然《しかるべ》き挨拶《あいさつ》を為たまへ」
「お話がお話だから可然《しかるべ》き御挨拶の為やうが無い」
「黙れ、間《はざま》! 貴様の頭脳《あたま》は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然《しかるべき》挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節《たしな》めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人《ぬすつと》の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧《あか》い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑《ぶべつ》したこの有様を、荒尾譲介《あらおじようすけ》に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟《おとと》を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱《ふさ》いでゐたぞ。その一言《いちごん》に対しても少しは良心の眠《ねむり》を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順《おとなし》く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方《あなたがた》がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為《な》すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形《かた》はそれで一先《ひとまづ》附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
 蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜《よろし》い」
「ではさう為《なす》つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦《じつかねんぷ》は」
「ええ? 常談ぢやありません」
 さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑《せせらわらひ》しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日|内《うち》に篤《とく》と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰《おつしや》るで、私の方も然るべき御挨拶[#「然るべき御挨拶」に傍点]が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外《ほか》へ廻るで急ぎますから、お話は後日|寛《ゆつく》り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方《あなた》御承諾なすつて置きながら今になつて遅々《ぐづぐづ》なすつては困ります」
蒲「疫病神《やくびようがみ》が戸惑《とまどひ》したやうに手形々々と煩《うるさ》い奴だ。俺《おれ》が始末をして遣らうよ」
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
 かかる事は能《よ》く知りながら彼はわざと怪しむなりき。
遊「そんな筈《はず》は無い」
 貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂《か》けて、
「九十円が元金《もときん》、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利《アイス》の定法《じようほう》です」
 音もせざれど遊佐が胆は潰《つぶ》れぬ。
「お……ど……ろ……いたね!」
 蒲田は物をも言はず件《くだん》の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶《なほ》も引裂き引裂き、引捩《ひきねぢ》りて間が目先に投遣《なげや》りたり。彼は騒げる色も無く、
「何を為《なさ》るのです」
「始末をして遣つたのだ」
「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」
 彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰《こころひそか》に懼《おそれ》を作《な》して、
「いやさう云ふ訳ぢやない……」
 蒲田は※[#「※」は「にんべん+乞」、167−14]《きつ》と膝《ひざ》を前《すす》めて、
「いや、さう云ふ訳だ!」
 彼の鬼臉《こはもて》なるをいと稚《をさな》しと軽《かろ》しめたるやうに、間はわざと色を和《やはら》げて、
「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方《あなた》も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私《わたくし》如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」
「おお俺が法学士ならどうした」
「名実が相副《あひそ》はんと謂ふのです」
「生意気なもう一遍言つて見ろ」
「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為《な》さい」
 蒲田が腕《かひな》は電光の如く躍《をど》りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴《もろつかみ》に無図《むず》と捉《と》りたり。
「間、貴様は……」
 捩向《ねぢむ》けたる彼の面《おもて》を打目戍《うちまも》りて、
「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠《かぶ》つて煖炉《ストオブ》の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼《ああ》、順《おとなし》い間を、と力抜《ちからぬけ》がして了ふ。貴様これが人情だぞ」
 鷹《たか》に遭《あ》へる小鳥の如く身動《みうごき》し得為《えせ》で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然《あはれ》と見遣りて、
「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間《はざま》と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼《よしみ》を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」
「さあ、間、どうだ」
「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自《おのづ》から別問題……」
 彼は忽ち吭迫《のどつま》りて言ふを得ず、蒲田は稍《やや》強く緊《し》めたるなり。
「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸《いき》が止るぞ」
 貫一は苦しさに堪《た》へで振釈《ふりほど》かんと※[#「※」は「てへん+宛」、169−2]《もが》けども、嘉納流《かのうりゆう》の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信《まか》せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、
「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」
「余り、暴《あら》くするなよ」
 蒲田は哄然《こうぜん》として大笑《たいしよう》せり。
「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝《すいこでん》にある図だらう。惟《おも》ふに、凡《およ》そ国利を護《まも》り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜《へちま》の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争《あらそひ》は抑《そもそ》も誰《たれ》の手で公明正大に遺憾無《いかんな》く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰《いは》く戦《たたかひ》!」
風「もう釈《ゆる》してやれ、大分《だいぶ》苦しさうだ」
蒲「強国にして辱《はづかし》められた例《ためし》を聞かん、故《ゆゑ》に僕は外交の術も嘉納流よ」
遊「余り酷《ひど》い目に遭せると、僕の方へ報《むく》つて来るから、もう舎《よ》してくれたまへな」
 他《ひと》の言《ことば》に手は弛《ゆる》めたれど、蒲田は未《いま》だ放ちも遣らず、
「さあ、間、返事はどうだ」
「吭《のど》を緊められても出す音《ね》は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面《つら》を五百円の紙幣束《さつたば》でお撲《たた》きなさい」
「金貨ぢや可かんか」
「金貨、結構です」
「ぢや金貨だぞ!」
 油断せる貫一が左の高頬《たかほ》を平手打に絶《したた》か吃《くらは》すれば、呀《あ》と両手に痛を抑《おさ》へて、少時《しばし》は顔も得挙《えあ》げざりき。蒲田はやうやう座に復《かえ》りて、
「急には此奴《こいつ》帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為《せ》う」
「さあ、それも可《よ》からう」
 独り可からぬは遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨《うま》くないね。さうして形が付かなければ、何時《いつ》までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞《しまひ》になつてこればかり遺《のこ》られたら猶《なほ》困る」
「宜《よろし》い、帰去《かへり》には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
 と彼は横手を拍《う》ちて不意に※[#「※」は「口+斗」、170−16]《さけ》べば、
「ええ、吃驚《びつくり》する、何だ」
「憶出《おもひだ》した。間の許婚《いひなづけ》はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日《こんにち》ぢや大きに日済《ひなし》などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為《さ》しちや可かんよ。けれども高利貸《アイス》などは、これで却《かへ》つて女子《をんな》には温《やさし》いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪《むさぼ》る所以《ゆゑん》の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀《えよう》がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営|惨憺《さんたん》と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨《かね》を殖《こしら》へるやうだがな、譬《たと》へば、軍用金を聚《あつ》めるとか、お家の宝を質請《しちうけ》するとか。単に己《おのれ》の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多《おほく》のガリガリ亡者《もうじや》は論外として、間貫一に於《おい》ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存《そん》するのだらう」
 秋の日は忽《たちま》ち黄昏《たそが》れて、稍《やや》早けれど燈《ともし》を入るるとともに、用意の酒肴《さけさかな》は順を逐《お》ひて運び出《いだ》されぬ。
「おつと、麦酒《ビイル》かい、頂戴《ちようだい》。鍋《なべ》は風早の方へ、煮方は宜《よろし》くお頼み申しますよ。うう、好い松茸《まつだけ》だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白《ましろ》で、庖丁《ほうちよう》が軋《きし》むやうでなくては。今年は不作《はづれ》だね、瘠《や》せてゐて、虫が多い、あの雨が障《さは》つたのさ。間、どう
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