受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些《ほん》の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼《よしみ》として、何方《どなた》でも承諾なさりさうなものですがな。究竟《つまり》名義だけあれば宜《よろし》いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決《け》してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉《かど》が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先《ひとまづ》句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」
遊佐は答ふるところを知らざるなり。
「何方《どなた》でも可うございます、御親友の内で一名」
「可かんよ、それは到底可かんのだよ」
「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関《かかは》るやうな手段も取らんければなりません」
「どうせうと言ふのかね」
「無論|差押《さしおさへ》です」
遊佐は強《し》ひて微笑を含みけれど、胸には犇《ひし》と応《こた》へて、はや八分の怯気《おじけ》付きたるなり。彼は悶《もだ》えて捩断《ねぢき》るばかりにその髭《ひげ》を拈《ひね》り拈りて止まず。
「三百円やそこらの端金《はしたがね》で貴方《あなた》の御名誉を傷《きずつ》けて、後来御出世の妨碍《さまたげ》にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決《け》して可好《このまし》くはないのです。けれども、此方《こちら》の請求を容《い》れて下さらなければ已《や》むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」
「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金《もときん》の上に借用当時から今日《こんにち》までの制規の利子が一ケ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円|強《なにがし》、それと合《がつ》して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費《つか》つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書《かか》される! 余《あんま》り馬鹿々々しくて話にならん。此方《こつち》の身にも成つて少しは斟酌《しんしやく》するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」
空嘯《そらうそぶ》きて貫一は笑へり。
「今更そんな事を!」
遊佐は陰《ひそか》に切歯《はがみ》をなしてその横顔を睨付《ねめつ》けたり。
彼も※[#「※」は「しんにょう+官」、157−9]《のが》れ難き義理に迫りて連帯の印捺《いんつ》きしより、不測の禍《わざはひ》は起りてかかる憂き目を見るよと、太《いた》く己《おのれ》に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸《か》くることもやと、断じて貫一の請求を容《い》れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷《きはま》るとともに貫一もこの場は一寸《いつすん》も去らじと構へたれば、遊佐は羂《わな》に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無《いはれな》き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜《ひるがへ》りて一点の人情無き賤奴《せんど》の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴《あ》れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。
「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」
「先月の二十日《はつか》にお払ひ下さるべきのを、未《いま》だにお渡《わたし》が無いのですから、何日《いつ》でも御催促は出来るのです」
遊佐は拳《こぶし》を握りて顫《ふる》ひぬ。
「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」
「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空《むなし》く帰るその日当及び俥代《くるまだい》として下すつたから戴きました。ですから、若《も》しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」
「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金《うちきん》でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」
「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足《むだあし》を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜《よろし》い訳なのです。まあ、過去つた事は措《お》きまして……」
「措けんよ。過去りは為んのだ」
「今日《こんにち》はその事で上つたのではないのですから、今日《こんにち》の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有《おつしや》るのですな」
「出来ん!」
「で、金《きん》も下さらない?」
「無いから遣れん!」
貫一は目を側めて遊佐が面《おもて》を熟《じ》と候《うかが》へり。その冷《ひややか》に鋭き眼《まなこ》の光は異《あやし》く彼を襲ひて、坐《そぞろ》に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽《たちま》ち吾に復《かへ》れるやうに覚えて、身の危《あやふ》きに処《を》るを省みたり。一時を快くする暴言も竟《つひ》に曳《ひか》れ者《もの》の小唄《こうた》に過ぎざるを暁《さと》りて、手持無沙汰《てもちぶさた》に鳴《なり》を鎮めつ。
「では、何《いつ》ごろ御都合が出来るのですか」
機を制して彼も劣らず和《やはら》ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢《しか》と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜《よろし》うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰《おつしや》るところは少しも有りはしません、その代り何分《なんぶん》か今日《こんにち》お遣《つかは》し下さい」
かく言ひつつ手鞄《てかばん》を開きて、約束手形の用紙を取出《とりいだ》せり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少《わづか》で宜《よろし》いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円《かね》は有りはせん」
「それぢや、どうも」
彼は遽《にはか》に躊躇《ちゆうちよ》して、手形用紙を惜めるやうに拈《ひね》るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
折から紙門《ふすま》を開きけるを弗《ふ》と貫一の※[#「※」は「目+是」、160−6]《みむか》ふる目前《めさき》に、二人の紳士は徐々《しづしづ》と入来《いりきた》りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各《おのおの》心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少《すこし》く座を動《ゆる》ぎて容《かたち》を改めたり。紳士は上下《かみしも》に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作《な》せり。
蒲「どうも曩《さき》から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
貫一は愕然《がくぜん》として二人の面《おもて》を眺めたりしが、忽《たちま》ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出《おもひいだ》せるなり。
「これはお珍《めづらし》い。何方《どなた》かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲《まうか》りませう」
貫一は打笑《うちゑ》みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
彼の毫《いささか》も愧《は》づる色無きを見て、二人は心陰《こころひそか》に呆《あき》れぬ。侮《あなど》りし風早もかくては与《くみ》し易《やす》からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然《しか》し思切つた事を始めましたね。君の性質で能《よ》くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業《わざ》ぢやありませんな」
これ実に真人間にあらざる人の言《ことば》なり。二人はこの破廉耻《はれんち》の老面皮《ろうめんぴ》を憎しと思へり。
蒲「酷《ひど》いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私《わたし》のやうな者が憖《なまじ》ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷《や》めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧《やはり》真人間で居てもらひたいね」
風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分|浮名《うきな》の聒《やかまし》かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
貫一は知らざる為《まね》してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
よしその旧友の前に人間の面《おもて》を赧《あか》めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨《うらやまし》い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印《ごいん》を願ひます」
彼は矢立《やたて》の筆を抽《ぬ》きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些《ちよつ》と、その手形はどう云ふのですね」
貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程|御尤《ごもつとも》、そこで少しお話を為たい」
蒲田は姑《しばら》く助太刀の口を噤《つぐ》みて、皺嗄声《しわがれごゑ》の如何《いか》に弁ずるかを聴かんと、吃余《すひさし》の葉巻を火入《ひいれ》に挿《さ》して、威長高《ゐたけだか》に腕組して控へたり。
「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱《あつかひ》をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼《たのみ》と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」
彼も答へず、これも少時《しばし》は言はざりしが、
「どうかね、君」
「勘弁と申しますと?」
「究竟《つまり》君の方に損の掛らん限は減《ま》けてもらひたいのだ。知つての通り、元金《もとこ》の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処《そこ》は能《よ》く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹《かか》つたので、如何《いか》にも気の毒な次第。ところで、図《はか》らずも貸主が君と云ふので、轍鮒《てつぷ》の水を得たる想《おもひ》で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間《はざま》として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙《かね》て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林《とおばやし》が従来《これまで》三回に二百七十円の利を払つて在《あ》る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金《もときん》だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」
貫一は冷笑せり。
「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費《つか》はずに空《くう》に出るのだから随分|辛《つら》い話、君の方は未《ま》だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競《くらべ》を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前《たちまへ》にはなつてゐる、此方《こつち》は三百九十円の全損《まるぞん》だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」
「全《まる》でお話にならない」
秋の日は短《みじか》しと謂《い》はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に
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