一つ行かうよ。手拭《てぬぐひ》を貸してくれ給へな」
遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」
実《げ》に言ふが如く彼は心穏《こころおだや》かならず見ゆるなり。
風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」
遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸《アイス》が来てをるのだよ」
蒲「那物《えてもの》が来たのか」
遊「先から座敷で帰来《かへり》を待つてをつたのだ。困つたね!」
彼は立ちながら頭《かしら》を抑へて緩《ゆる》く柱に倚《よ》れり。
蒲「何とか言つて逐返《おつかへ》して了ひ給へ」
遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍《ひねくね》した皮肉な奴でね、那奴《あいつ》に捉《つかま》つたら耐《たま》らん」
蒲「二三円も叩《たた》き付けて遣るさ」
遊「もうそれも度々《たびたび》なのでね、他《むかふ》は書替を為《さ》せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」
風早は聴ゐるだに心苦くて、
「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮《ふる》つて」
「これは外の談判と違つて唯|金銭《かね》づくなのだから、素手《すで》で飛込むのぢや弁の奮《ふる》ひやうが無いよ。それで忽諸《まごまご》すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀《すけだち》を為るから」
いと難《むづか》しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。
風「気の毒な、萎《しを》れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯《すく》つて遣り給へな」
蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可《い》かない。ああ云ふ風だから益《ますま》す脚下《あしもと》を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭《かね》の貸借《かしかり》だ、命に別条は有りはしないさ」
「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼《おそ》れるだらうぢやないか」
「ところが懼れない! 紳士たるものが高利《アイス》を貸したら[#「貸したら」に傍点]名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利《あんり》や無利息なんぞを借りるから見れば、夐《はるか》に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭《かね》に窮《こま》らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為《す》まいし、名誉に於て傷《きずつ》くところは少しも無い」
「恐入りました、高利《アイス》を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」
「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利《アイス》を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚《は》づべき行《おこなひ》と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未《いま》だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能《あた》はざるなりだらう。宋《そう》の時代であつたかね、何か乱が興《おこ》つた。すると上奏に及んだものがある、これは師《いくさ》を動かさるるまでもない、一人《いちにん》の将を河上《かじよう》へ遣《つかは》して、賊の方《かた》に向つて孝経《こうきよう》を読せられた事ならば、賊は自《おのづ》から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目《まじめ》で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割《てんびきしわり》と吃《く》つて一月|隔《おき》に血を吮《すは》れる。そんな無法な目に遭《あ》ひながら、未《いま》だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利《アイス》は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族《けだもの》さ」
得意の快弁流るる如く、彼は息をも継《つが》せず説来《とききた》りぬ。
「濡《ぬ》れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未《いま》だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな※[#「※」は「りっしんべん+(蜈−虫)」、149−12]《あやまり》だ。それは勿論《もちろん》借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物《いちぶつ》にして一物ならずだよ。武士の魂《たましひ》と商人《あきんど》根性とは元|是《これ》一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容《ゆる》さんことは、武士の魂と敢《あへ》て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人《あきんど》にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利《アイス》などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利《たいアイス》となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟《つまり》は敵に応ずる手段なのだ」
「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利《アイス》を借りて、栄と為るに足れりと謂《い》ふに至つては……」
蒲田は恐縮せる状《さま》を作《な》して、
「それは少し白馬は馬に非《あら》ずだつたよ」
「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」
「どれ、一匕《いつぴ》深く探る蛟鰐《こうがく》の淵《えん》と出掛けやうか」
「空拳《くうけん》を奈《いか》んだらう」
一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独《ひと》り臥《ね》つ起きつ安否の気遣《きづかは》れて苦き無聊《ぶりよう》に堪へざる折から、主《あるじ》の妻は漸《やうや》く茶を持ち来りぬ。
「どうも甚《はなは》だ失礼を致しました」
「蒲田は座敷へ参りましたか」
彼はその美き顔を少く赧《あか》めて、
「はい、あの居間へお出《いで》で、紙門越《ふすまごし》に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥《はづかし》くてなりません」
「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」
「私《わたくし》はもう彼奴《あいつ》が参りますと、惣毛竪《そうけだ》つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭《いや》に陰気な※[#「※」は「韋+(仞−イ)」、151−1]々《ねちねち》した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」
急足《いそぎあし》に階子《はしご》を鳴して昇り来りし蒲田は、
「おいおい風早、不思議、不思議」
と上端《あがりはな》に坐れる妻の背後《うしろ》を過《すぐ》るとて絶《したた》かその足を蹈付《ふんづ》けたり。
「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」
骨身に沁《し》みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺《おしこら》へつつ、さり気無く挨拶《あいさつ》せるを、風早は見かねたりけん、
「不相変《あひかはらず》麁相《そそつ》かしいね、蒲田は」
「どうぞ御免を。つい慌《あわ》てたものだから……」
「何をそんなに慌てるのさ」
「落付《おちつか》れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸《アイス》と云ふのは、誰《たれ》だと思ふ」
「君のと同し奴かい」
「人様の居る前で君の[#「君の」に傍点]とは怪しからんぢやないか」
「これは失礼」
「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面《つら》を蹈んだ」
「でも仕合《しあはせ》と皮の厚いところで」
「怪《け》しからん!」
妻の足の痛《いたみ》は忽《たちま》ち下腹に転《うつ》りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。
風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」
蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」
敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、
「間貫一、学校に居た?!」
「さう! 驚いたらう」
彼は長き鼻息を出して、空《むなし》く眼《まなこ》を※[#「※」は「目+登」、152−8]《みは》りしが、
「本当かい」
「まあ、見て来たまへ」
別して呆《あき》れたるは主《あるじ》の妻なり。彼は鈍《おぞ》ましからず胸の跳《をど》るを覚えぬ。同じ思は二人が面《おもて》にも顕《あらは》るるを見るべし。
「下に参つてゐるのは御朋友《ごほうゆう》なのでございますか」
蒲田は忙《せは》しげに頷《うなづ》きて、
「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」
「まあ!」
「夙《かね》て学校を罷《や》めてから高利貸《アイス》を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和《ごくおとなし》い男で、高利貸《アイス》などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚《うそ》だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」
「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」
「さあ、そこで誰も虚《うそ》と想ふのです」
「本《ほん》にさうでございますね」
少《すこし》き前に起ちて行きし風早は疑《うたがひ》を霽《はら》して帰り来《きた》れり。
「どうだ、どうだ」
「驚いたね、確に間貫一!」
「アルフレッド大王の面影《おもかげ》があるだらう」
「エッセクスを逐払《おつぱら》はれた時の面影だ。然し彼奴《あいつ》が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」
「さあ、あれで因業《いんごう》な事が出来るだらうか」
「因業どころではございませんよ」
主《あるじ》の妻はその美き顔を皺《しわ》めたるなり。
蒲「随分|酷《ひど》うございますか」
妻「酷うございますわ」
こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽《にはか》に取りて飲干し、
「然し間であるのが幸《さいはひ》だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕《あこぎ》なことは言ひもすまい。次手《ついで》に何とか話を着けて、元金《もときん》だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴《あいつ》なら恐れることは無い」
彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩《けんか》に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些《ちつ》と気凛《きりつ》とするが可い、帯の下へ時計の垂下《ぶらさが》つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主《あるじ》の妻は傍《かたはら》より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様《はばかりさま》です。些《ちよつ》と身支度に婦人の心添《こころぞへ》を受けるところは堀部安兵衛《ほりべやすべえ》といふ役だ。然し芝居でも、人数《にんず》が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間《はざま》如きに」
「急に強くなつたから可笑《をかし》い。さあ。用意は好《い》いよ」
「此方《こつち》も可《い》い」
二人は膝を正して屹《き》と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討《かたきうち》の門出《かどで》だ。互に交す茶盃《ちやさかづき》か」
第 六 章
座敷には窘《くるし》める遊佐と沈着《おちつ》きたる貫一と相対して、莨盆《たばこぼん》の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍《かたはら》に茶托《ちやたく》の上に伏せたる茶碗《ちやわん》は、嘗《かつ》て肺病患者と知らで出《いだ》せしを恐れて除物《のけもの》にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
遊佐は憤《いきどほり》を忍べる声音《こわね》にて、
「それは出来んよ。勿論《もちろん》朋友《ほうゆう》は幾多《いくら》も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何《なん》ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
貫一の声は重きを曳《ひ》くが如く底強く沈みたり。
「敢《あへ》て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私《わたくし》の方が立ちません。何方《どちら》とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固《もと》より貴方《あなた》がお引
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