う》がございませう、あの傍《そば》へ些《ちよつ》とお出で下さいませんか。一枚|像《とら》して戴きたい」
 写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立《おりた》ちて、早くもカメラの覆《おほひ》を引被《ひきかつ》ぎ、かれこれ位置を取りなどして、
「さあ、光線の具合が妙だ!」
 いでや、事の様《よう》を見んとて、慢々《ゆらゆら》と出来《いできた》れるは富山唯継なり。片手には葉巻《シガア》の半《なかば》燻《くゆ》りしを撮《つま》み、片臂《かたひぢ》を五紋の単羽織《ひとへはおり》の袖《そで》の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑《ゑみ》を浮べつつ、
「ああ、おまへ其処《そこ》に居らんければ可かんよ、何為《なぜ》歩いて来るのかね」
 子爵の慌《あわ》てたる顔はこの時|毛繻子《けじゆす》の覆の内よりついと顕《あらは》れたり。
「可けない! 那処《あすこ》に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙《かうむ》る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」
「いや、貴方《あなた》は巧い言《こと》をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」
「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方《あちら》へ。静緒、お前奥さんを那処《あすこ》へお連れ申して」
 唯継は目もて示して、
「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度《ごしたく》をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍《そば》へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含《はにか》むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣《や》つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢《かたち》は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛《よつかか》つて頬杖《ほほづゑ》でも※[#「※」は「てへん+主」、140−14]《つ》いて、空を眺《なが》めてゐる状《かたち》なども可いよ。ねえ、如何《いかが》でせう」
「結構。結構」と子爵は頷《うなづ》けり。
 心は進まねど強ひて否《いな》むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、
「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」
 かく呟《つぶや》きつつ庭下駄を引掛《ひきか》け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚《よら》しめ、頬杖を※[#「※」は「てへん+主」]《つか》しめ、空を眺めよと教へて、袂《たもと》の皺《しわ》めるを展《の》べ、裾《すそ》の縺《もつれ》を引直し、さて好しと、少《すこし》く退《の》きて姿勢を見るとともに、彼はその面《おもて》の可悩《なやまし》げに太《いた》くも色を変へたるを発見して、直《ただち》に寄り来つ、
「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処《どこ》か不快《わるい》のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」
「少しばかり頭痛がいたすので」
「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」
「いいえ、それ程ではないので」
「苦いやうなら我慢をせんとも、私《わし》が訳を言つてお謝絶《ことわり》をするから」
「いいえ、宜《よろし》うございますよ」
「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」
「宜うございますよ」
「さうか、然し非常に可厭《いや》な色だ」
 彼は眷々《けんけん》として去る能《あた》はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。
「如何《いかが》ですか」
 唯継は慌忙《あわただし》く身を開きて、
「一つこれで御覧下さい」
 鏡面《レンズ》に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板《たねいた》を挿入《さしい》るれば、唯継は心得てその邇《ちかき》を避けたり。
 空を眺むる宮が目の中《うち》には焚《も》ゆらんやうに一種の表情力|充満《みちみ》ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣《きぬ》は唐松《からまつ》の翠《みどり》の下蔭《したかげ》に章《あや》を成して、秋高き清遠の空はその後に舗《し》き、四脚《よつあし》の雪見燈籠を小楯《こだて》に裾の辺《あたり》は寒咲躑躅《かんざきつつじ》の茂《しげみ》に隠れて、近きに二羽の鵞《が》の汀《みぎは》に※[#「※」は「求/食」、142−5]《あさ》るなど、寧《むし》ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面《レンズ》を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽《たちま》ち頽《くづ》れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破《がば》と伏しぬ。

     第 五 章

 遊佐良橘《ゆさりようきつ》は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗《すこぶ》る謹直を以《も》て聞えしに、却《かへ》りて、日本周航会社に出勤せる今日《こんにち》、三百円の高利の為に艱《なやま》さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外《おもて》を張らざるべからざる為の遣繰《やりくり》なるべしと言ひ、或ものは隠遊《かくれあそび》の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂《い》ふべからざる事情の下に連帯の印《いん》を仮《か》せしが、形《かた》の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受《うく》ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士|蒲田《かまだ》鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士|風早庫之助《かざはやくらのすけ》とあるのみ。
 凡《およ》そ高利の術たるや、渇者《かつしや》に水を売るなり。渇の甚《はなはだし》く堪《た》へ難き者に至りては、決してその肉を割《さ》きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値《あたひ》玉漿《ぎよくしよう》を盛るに異る無し。故《ゆゑ》に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒《いゆ》るに及びては、玉漿なりとして喜び吃《きつ》せしものは、素《も》と下水の上澄《うはずみ》に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾《しぼ》りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫《ああ》、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借《か》るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以《も》て、高利は借《か》るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹《かか》れる哉《かな》と、彼は人の為ながら常にこの憂《うれひ》を解く能《あた》はざりき。
 近きに郷友会《きようゆうかい》の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰《かへる》さを彼等は三人《みたり》打連れて、遊佐が家へ向へるなり。
「別に御馳走《ごちそう》と云つては無いけれど、松茸《まつだけ》の極新《ごくあたらし》いのと、製造元から貰《もら》つた黒麦酒《くろビイル》が有るからね、鶏《とり》でも買つて、寛《ゆつく》り話さうぢやないか」
 遊佐が弄《まさぐ》れる半月形の熏豚《ハム》の罐詰《かんづめ》も、この設《まうけ》にとて途《みち》に求めしなり。
 蒲田の声は朗々として聴くに快く、
蒲「それは結構だ。さう泊《とまり》が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対《たい》に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然《しか》し、どうもその長足のちやう[#「ちやう」に傍点]はてう[#「てう」に傍点](貂)足らず、続《つ》ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然《すつかり》フロックが止《とま》つた? ははははは[#「ははははは」に傍点]、それはお目出度《めでた》いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明《あきらか》に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」
 風早は例の皺嗄声《しわかれごゑ》して大笑《たいしよう》を発せり。
風「更に一段の進境を示すには、竪杖《たてキュウ》をして二寸三分クロオスを裂《やぶ》かなければ可けません」
蒲「三たび臂《ひぢ》を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖《たてキュウ》の極意を悟つたのだ」
風「へへへ、この頃の僕の後曳《あとびき》の手際《てぎは》も知らんで」
 これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。
遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間|那処《あすこ》の主翁《おやぢ》がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分|失《なくな》る……」
蒲「穿得《うがちえ》て妙だ」
風「チョオクの多少は業《わざ》の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇《むやみ》に杖《キュウ》を取易《とりか》へるのだつて、決して見《み》とも好くはない」
 蒲田は手もて遽《にはか》に制しつ。
「もう、それで可い。他《ひと》の非を挙げるやうな者に業《わざ》の出来た例《ためし》が無い。悲い哉《かな》君達の球も蒲田に八十で底止《とまり》だね」
風「八十の事があるものか」
蒲「それでは幾箇《いくつ》で来るのだ」
「八十五よ」
「五とは情無い! 心の程も知られける哉《かな》だ」
「何でも可いから一ゲエム行かう」
「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」
 語《ことば》も訖《をは》らざるに彼は傍腹《ひばら》に不意の肱突《ひぢつき》を吃《くら》ひぬ。
「あ、痛《いた》! さう強く撞《つ》くから毎々球が滾《ころ》げ出すのだ。風早の球は暴《あら》いから癇癪玉《かんしやくだま》と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔《やはらか》いから蒟蒻玉《こんにやくだま》。それで、二人の撞くところは電公《かみなり》と蚊帳《かや》が捫択《もんちやく》してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度《たんと》も行かんが、天狗《てんぐ》の風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじと諍《あらが》ひし末、直《ただち》に一番の勝負をいざいざと手薬煉《てぐすね》引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛《ゆつく》り出来るさ。帰つて風呂にでも入《い》つて、それから徐々《そろそろ》始めやうよ」
 往来繁《ゆききしげ》き町を湯屋の角より入《い》れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑《まじ》りながら閑静に、家並《やなみ》整へる中程に店蔵《みせぐら》の質店《しちや》と軒ラムプの並びて、格子木戸《こうしきど》の内を庭がかりにしたる門《かど》に楪葉《ゆづりは》の立てるぞ遊佐が居住《すまひ》なる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出《い》で来《きた》りて、伴へる客あるを見て稍《やや》打惑へる気色《けしき》なりしが、遽《にはか》に笑《ゑみ》を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤《とが》められて、彼はいよいよ困《こう》じたるなり。
「唯今《ただいま》些《ちよい》と塞《ふさが》つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば※[#「※」は「にんべん+從」、146−8]々《づかづか》と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵《わにぶち》から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些《ちよい》とお会ひなすつて、早く還《かへ》してお了《しま》ひなさいましな」
「松茸《まつだけ》はどうした」
 妻はこの暢気《のんき》なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒《くろビイル》な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私《わたし》は那奴《あいつ》が居ると思ふと不快《いや》な心持で」
 遊佐も差当りて当惑の眉《まゆ》を顰《ひそ》めつ。二階にては例の玉戯《ビリアアド》の争《あらそひ》なるべし、さも気楽に高笑《たかわらひ》するを妻はいと心憎く。
 少間《しばし》ありて遊佐は二階に昇り来《きた》れり。
蒲「浴《ゆ》に
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