相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑《そも》や幾許《いかばか》り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面《おもて》に唾吐《つばはか》るるも厭《いと》はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬《あふせ》は今日の一日《ひとひ》に限らぬものを、事の破《やぶれ》を目に見て愚に躁《はやま》るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機《をり》ならず、辛《つら》くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺《すか》して、邸内《やしきうち》を一周せんと、西洋館の後《うしろ》より通用門の側《わき》に出でて、外塀際《そとべいぎは》なる礫道《ざりみち》を行けば、静緒は斜《ななめ》に見ゆる父が詰所の軒端《のきば》を指《さ》して、
「那処《あすこ》が唯今の客の参つてをります所でございます」
 実《げ》に唐楪葉《からゆづりは》は高く立ちて、折しく一羽の小鳥|来鳴《きな》けり。宮が胸は異《あやし》うつと塞《ふたが》りぬ。
 楼《たかどの》を下りてここに来たるは僅少《わづか》の間《ひま》なれば、よもかの人は未《いま》だ帰らざるべし、若しここに出で来《きた》らば如何《いか》にすべきなど、さすがに可恐《おそろし》きやうにも覚えて、歩《あゆみ》は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入《い》らで、さて行くほどに裏門の傍《かたはら》に到りぬ。
 遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙《あぐ》れども何処《いづこ》を眺むるにもあらず、俯《うつむ》き勝に物思はしき風情《ふぜい》なるを、静緒は怪くも気遣《きづかはし》くて、
「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」
「いいえ、もう大概良いのですけれど、未《ま》だ何だか胸が少し悪いので」
「それはお宜《よろし》うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」
「家《うち》の中よりは戸外《おもて》の方が未だ可いので、もう些《ち》と歩いてゐる中には復《をさま》りますよ。ああ、此方《こちら》がお宅ですか」
「はい、誠に見苦い所でございます」
「まあ、奇麗な! 木槿《もくげ》が盛《さかり》ですこと。白ばかりも淡白《さつぱり》して好《よ》いぢやありませんか」
 畔柳の住居《すまひ》を限として、それより前《さき》は道あれども、賓《まらうど》の足を容《い》るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣《まだらがき》の此方《こなた》に、樫《かし》の実の夥《おびただし》く零《こぼ》れて、片側《かたわき》に下水を流せる細路《ほそみち》を鶏の遊び、犬の睡《ねむ》れるなど見るも悒《いぶせ》きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼《おそれ》は忽《たちま》ちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来《いできた》るに会はば、遁《のが》れんやうはあらで明々地《あからさま》に面《おもて》を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何《いか》にせん。仮令《たとひ》此方《こなた》にては知らぬ顔してあるべきも、争《いか》でかの人の見付けて驚かざらん。固《もと》より恨を負へる我が身なれば、言《ことば》など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭《おどろき》は如何ならん。仇《あだ》に遇《あ》へるその憤懣《いきどほり》は如何ならん。必ずかの人の凄《すさまじ》う激せるを見ば、静緒は幾許《いかばかり》我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉《ひとし》く身内は熱して冷《つめた》き汗を出《いだ》し、足は地に吸るるかとばかり竦《すく》みて、宮はこれを想ふにだに堪《た》へざるなりけり。脇道《わきみち》もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣《や》る方も無く惑へる宮が面色《おももち》の穏《やす》からぬを見尤《みとが》めて、静緒は窃《ひそか》に目を側《そば》めたり。彼はいとどその目を懼《おそ》るるなるべし。今は心も漫《そぞろ》に足を疾《はや》むれば、土蔵の角《かど》も間近になりて其処《そこ》をだに無事に過ぎなば、と切《しきり》に急がるる折しも、人の影は突《とつ》としてその角より顕《あらは》れつ。宮は眩《めくるめ》きぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前は好《よ》きやうに言譌《いひこしら》へ、さて篤と実否を糺《ただ》せし上にて私《ひそか》に為《せ》んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍《やや》目深《まぶか》に引側《ひきそば》め、通学に馴《なら》されし疾足《はやあし》を駆りて、塗籠《ぬりこめ》の角より斜《ななめ》に桐の並木の間《あひ》を出でて、礫道《ざりみち》の端を歩み来《きた》れり。
 四辺《あたり》に往来《ゆきき》のあるにあらねば、二人の姿は忽《たちま》ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾《と》く知られけれど、顔打背《かほうちそむ》けたる貴婦人の眩《まばゆ》く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔《わづか》に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近《ちかづ》けば、貫一は静緒に向ひて慇懃《いんぎん》に礼するを、宮は傍《かたはら》に能《あた》ふ限は身を窄《すぼ》めて密《ひそか》に流盻《ながしめ》を凝したり。その面《おもて》の色は惨として夕顔の花に宵月の映《うつろ》へる如く、その冷《ひややか》なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚《あし》は打顫《うちふる》ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟《とどろ》くを、覚《さと》られじとすれば猶《なほ》打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁《し》むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際《きは》に、ふと目鞘《めざや》の走りて、館の賓《まらうど》なる貴婦人を一|瞥《べつ》せり。端無《はしな》くも相互《たがひ》の面《おもて》は合へり。宮なるよ! 姦婦《かんぷ》なるよ! 銅臭の肉蒲団《にくぶとん》なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨《ね》めて動かざる眼《まなこ》には見る見る涙を湛《たた》へて、唯|一攫《ひとつかみ》にもせまほしく肉の躍《をど》るを推怺《おしこら》へつつ、窃《ひそか》に歯咬《はがみ》をなしたり。可懐《なつか》しさと可恐《おそろ》しさと可耻《はづか》しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩《たと》へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付《いだきつ》きても思ふままに苛《さいな》まれんをと、心のみは憧《あこが》れながら身を如何《いかに》とも為難《しがた》ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠《こ》むるより外はあらず。
 貫一はつと踏出して始の如く足疾《あしばや》に過行けり。宮は附人《つきひと》に面を背《そむ》けて、唇《くちびる》を咬《か》みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁《わきま》へねど、推《すい》すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓《まらうど》の顔色のさしも常ならず変りて可悩《なやま》しげなるを、問出でんも可《よし》や否《あし》やを料《はか》りかねて、唯|可慎《つつまし》う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出《いで》あそばして、お休み遊ばしましては如何《いかが》でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼《まつさを》でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方《あちら》へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可《い》けませんから、お庭を一周《ひとまはり》しまして、その内には気分が復《なほ》りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変|貴方《あなた》のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰《おつしや》います」
 貴婦人はその無名指《むめいし》より繍眼児《めじろ》の押競《おしくら》を片截《かたきり》にせる黄金《きん》の指環を抜取りて、懐紙《ふところかみ》に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証《しるし》に」
 静緒は驚き怖《おそ》れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可《よ》うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様《おとつさま》にも阿母様《おつかさま》にも誰にも有仰《おつしや》らないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠《てごめ》に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋《そたばし》近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑《たかわらひ》するが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間に勉《つと》めて気を平《たひら》げ、色を歛《をさ》めて、ともかくも人目を※[#「※」は「しんにょう+官」、138−1]《のが》れんと計れるなり。されどもこは酒を窃《ぬす》みて酔はざらんと欲するに同《おなじ》かるべし。
 彼は先に遭《あ》ひし事の胸に鏤《ゑ》られたらんやうに忘るる能《あた》はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出《もえい》でて、募りに募らんとする心の乱《みだれ》は、堪《た》ふるに難《かた》き痛苦《くるしみ》を齎《もたら》して、一歩は一歩より、胸の逼《せま》ること急に、身内の血は尽《ことごと》くその心頭《しんとう》に注ぎて余さず熬《い》らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛《うちくつろ》ぎて意任《こころまか》せの我が家に独り居たらんぞ可《よ》き。人に接して強《し》ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩《わづらは》しと、例の劇《はげし》く唇《くちびる》を咬《か》みて止まず。
 築山陰《つきやまかげ》の野路《のぢ》を写せる径《こみち》を行けば、蹈処無《ふみどころな》く地を這《は》ふ葛《くず》の乱れ生《お》ひて、草藤《くさふぢ》、金線草《みづひき》、紫茉莉《おしろい》の色々、茅萱《かや》、穂薄《ほすすき》の露滋《つゆしげ》く、泉水の末を引きて※[#「※」は「鄰−おおざと+巛」、138−9]々《ちよろちよろ》水《みづ》を卑《ひく》きに落せる汀《みぎは》なる胡麻竹《ごまたけ》の一叢《ひとむら》茂れるに隠顕《みえかくれ》して苔蒸《こけむ》す石組の小高きに四阿《あづまや》の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱《なやま》しげに憩へり。
 彼は静緒の柱際《はしらぎは》に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥《くたびれ》でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色の前《さき》にも劣らず蒼白《あをざ》めたるのみならで、下唇の何に傷《きずつ》きてや、少《すこし》く血の流れたるに、彼は太《いた》く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何《いかが》あそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴《ざくろ》の花弁《はなびら》の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡《ふところかがみ》取出《とりいだ》して、咬《か》むことの過ぎし故《ゆゑ》ぞと知りぬ。実《げ》に顔の色は躬《みづから》も凄《すご》しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周《いくめぐり》して我はこの色を隠さんと為《す》らんと、彼は心陰《こころひそか》に己《おのれ》を嘲《あざけ》るなりき。
 忽《たちま》ち女の声して築山の彼方《あなた》より、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴して応《こた》へけるが、やがて木隠《こがくれ》に語《かたら》ふ気勢《けはひ》して、返り来ると斉《ひとし》く賓《まらうど》の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直《すぐ》に彼方《あちら》へお出《いで》あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋《うんたいきよう》の在る方《かた》へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭《ところせま》きまで盃盤《はいばん》を陳《つら》ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方《こなた》の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾《さしまね》きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方《こちら》に燈籠《とうろ
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