入りつつ貴婦人は笑《ゑ》ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在《おいで》でゐらつしやいましたが、皆為《みんななす》つて御覧遊ばしました」
 貴婦人は怺《こら》へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水《はやみ》と申す者は余《あんま》り急ぎましたので、耳の此処《ここ》を酷《ひど》く打《ぶ》ちまして、血を出したのでございます」
 彼の歓《よろこ》べるを見るより静緒は椅子を持来《もちきた》りて薦《すす》めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰《たれ》にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目《まじめ》なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西《フランス》に居た時には能《よ》く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
 その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇《あくさげき》を親く睹《み》たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白《おもしろ》い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝《すぐ》れ遊ばしませんので、お険《むづかし》いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
 書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒《にはか》に空目遣《そらめづかひ》して物の思はしげに、例の底寂《そこさびし》う打湿《うちしめ》りて見えぬ。
 やや有りて彼は徐《しづか》に立ち上りけるが、こ回《たび》は更に邇《ちか》きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方《あなたこなた》に差向くる筒の当所《あてど》も無かりければ、偶《たまた》ま唐楪葉《からゆづりは》のいと近きが鏡面《レンズ》に入《い》り来《き》て一面に蔓《はびこ》りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自《おのづ》から得忘れぬ面影に肖《に》たるところあり。
 貴婦人は差し向けたる手を緊《しか》と据ゑて、目を拭《ぬぐ》ふ間も忙《せはし》く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉《えだは》の遮《さへぎ》りてとかくに思ふままならず。漸《やうや》くその顔の明《あきらか》に見ゆる隙《ひま》を求めけるが、別に相対《さしむか》へる人ありて、髪は黒けれども真額《まつかう》の瑩々《てらてら》禿《は》げたるは、先に挨拶《あいさつ》に出《い》でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃《まゆこ》く、外眦《まなじり》の昂《あが》れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖《に》たりとは未《おろか》や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡《グラス》持てる手は兢々《わなわな》と打顫《うちふる》ひぬ。
 行く水に数画《かずか》くよりも儚《はかな》き恋しさと可懐《なつか》しさとの朝夕に、なほ夜昼の別《わかち》も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年《よとせ》の久きを、熱海の月は朧《おぼろ》なりしかど、一期《いちご》の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又|何日《いつか》は必ずと念懸《おもひか》けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫《つゆ》も昔に渝《かは》らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何《いか》なる労《わづらひ》をやさまでは積みけん、齢《よはひ》よりは面瘁《おもやつれ》して、異《あやし》うも物々しき分別顔《ふんべつかほ》に老いにけるよ。幸薄《さいはひうす》く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出《わきい》でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮《あざやか》に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪《た》へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁《さと》りて失《しな》したりと思ひたれど、所為無《せんな》くハンカチイフを緊《きびし》く目に掩《あ》てたり。静緒の驚駭《おどろき》は謂ふばかり無く、
「あれ、如何《いか》が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良《わるい》ものですから、余《あんま》り物を瞶《みつ》めてをると、どうかすると眩暈《めまひ》がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭《ぐし》をお摩《さす》り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直《ぢき》に癒《なほ》ります。憚《はばかり》ですがお冷《ひや》を一つ下さいましな」
 静緒は驀地《ましぐら》に行かんとす。
「あの、貴方《あなた》、誰にも有仰《おつしや》らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽《うがひ》をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏《かしこま》りました」
 彼の階子《はしご》を下り行くと斉《ひとし》く貴婦人は再び鏡《グラス》を取りて、葉越《はごし》の面影を望みしが、一目見るより漸含《さしぐ》む涙に曇らされて、忽《たちま》ち文色《あいろ》も分かずなりぬ。彼は静無《しどな》く椅子に崩折《くづを》れて、縦《ほしいま》まに泣乱したり。

     (四) の 三

 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継《ただつぐ》と倶《とも》に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交《くみかは》す間《ま》を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰《いづれ》も日本写真会々員たるに因《よ》れり。自《おのづか》ら宮の除物《のけもの》になりて二人の興に入《い》れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意《こころ》を獲《え》んと力《つと》めけるより、子爵も好みて交《まじは》るべき人とも思はざれど、勢ひ疎《うとん》じ難《がた》くして、今は会員中善く識《し》れるものの最《さい》たるなり。爾来《じらい》富山は益《ますま》す傾慕して措《お》かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定《かんてい》を乞ふを名として、曩《さき》に芝西久保《しばにしのくぼ》なる居宅に請じて疎《おろそか》ならず饗《もてな》す事ありければ、その返《かへし》とて今日は夫婦を招待《しようだい》せるなり。
 会員等は富山が頻《しきり》に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為《かれため》にするところあらんなど言ひて陋《いやし》み合へりけれど、その実|敢《あへ》て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交《まじは》るところは、その地位に於《おい》て、その名声に於て、その家柄に於て、或《あるひ》はその資産に於て、孰《いづれ》の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実《げ》に彼は美き友を有《も》てるなり。さりとて彼は未《いま》だ曾《かつ》てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強《あながち》に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉《つと》めて交《まじはり》は求むるならん。故《ゆゑ》に彼はその名簿の中に一箇《いつか》の憂《うれひ》を同《おなじ》うすべき友をだに見出《みいだ》さざるを知れり。抑《そもそ》も友とは楽《たのしみ》を共にせんが為の友にして、若《も》し憂を同うせんとには、別に金銭《マネイ》ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固《もと》よりこの理に外ならず、寔《まこと》に彼の択べる友は皆美けれども、尽《ことごと》くこれ酒肉の兄弟《けいてい》たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然《しか》りと為《な》すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を※[#「※」は「目+毛」、131−14]《かす》めて、陋《いやし》みても猶《なほ》余ある高利貸の手代に片思の涙を灑《そそ》ぐにあらずや。
 宮は傍《かたはら》に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏《かきく》れて、熱海の浜に打俯《うちふ》したりし悲歎《なげき》の足らざるをここに続《つ》がんとすなるべし。階下《した》より仄《ほのか》に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭《かしら》を支へつつ室《しつ》の中央《まなか》なる卓子《テエブル》の周囲《めぐり》を歩みゐたり。やがて静緒の持来《もちきた》りし水に漱《くちそそ》ぎ、懐中薬《かいちゆうくすり》など服して後、心地|復《をさま》りぬとて又窓に倚《よ》りて外方《とのがた》を眺めたりしが、
「ちよいと、那処《あすこ》に、それ、男の方の話をしてお在《いで》の所も御殿の続きなのですか」
「何方《どちら》でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お邸内《やしきうち》でございます。これから直《ぢき》に見えまする、あの、倉の左手に高い樅《もみ》の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直《ずつ》とお宅の方へ行《い》かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些《ちつ》とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢《きたな》うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又|葉越《はごし》の面影を窺《うかが》へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処《あすこ》にお父様《とつさま》とお話をしてゐらつしやるのは何地《どちら》の方ですか」
 彼の親達は常に出入《でいり》せる鰐淵《わにぶち》の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告《つぐ》るなり。
「他《あれ》は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買《うりかひ》を致してをります者の手代で、間《はざま》とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語《ひとりご》ちて、その違《たが》へるを訝《いぶか》るやうに擬《もてな》しつつ又|其方《そなた》を打目戍《うちまも》れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語に因《よ》りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何《いか》にとも逢ふべき便《たより》はあらんと、獲難《えがた》き宝を獲たるにも勝《まさ》れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日《いつ》をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇《あだ》に、余所《よそ》ながら見て別れんは本意無《ほいな》からずや。若《も》し彼の眼《まなこ》に睨《にら》まれんとも、互の面《おもて》を合せて、言《ことば》は交《かは》さずとも切《せめ》ては相見て相知らばやと、四年《よとせ》を恋に饑《う》ゑたる彼の心は熬《いら》るる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣《きづか》へるは、事の危《あやふ》きに過ぎたるなり。附添さへある賓《まらうど》の身にして、賤《いやし》きものに遇《あつか》はるる手代|風情《ふぜい》と、しかもその邸内《やしきうち》の径《こみち》に
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