つ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主《あるじ》の妻の声して、連《しきり》に婢《をんな》の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出《い》で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出《いで》でした」
 眼《まなこ》のみいと大くて、病勝《やまひがち》に痩衰《やせおとろ》へたる五体は燈心《とうしみ》の如く、見るだに惨々《いたいた》しながら、声の明《あきらか》にして張ある、何処《いづこ》より出《い》づる音《ね》ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂《い》へるその人なり。年は五十路《いそぢ》ばかりにて頭《かしら》の霜繁《しもしげ》く夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風の恭《うやうやし》き礼を作《な》して、
「はい、今日《こんにち》は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方《こちら》様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出《いで》はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸《かか》りたいと申してをりましたところ。唯今《ただいま》御殿へ出てをりますので、些《ちよつ》と呼びに遣りませうから、暫《しばら》くお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近《はしちか》う控ふれば、彼は井《ゐ》の端《はた》なりし婢《をんな》を呼立てて、速々《そくそく》主《あるじ》の方《かた》へ走らせつ。莨盆《たばこぼん》を出《いだ》し、番茶を出《いだ》せしのみにて、納戸《なんど》に入りける妻は再び出《い》で来《きた》らず。この間は貫一は如何《いか》にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促《いきせ》き還来《かへりき》にける気勢《けはひ》せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今|些《ちよつ》と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方《あちら》へお出なすつて。直《ぢき》其処《そこ》ですよ。婢に案内を為せます。あの豊《とよ》や!」
 暇乞《いとまごひ》して戸口を出づれば、勝手元の垣の側《きは》に二十歳《はたち》かと見ゆる物馴顔《ものなれがほ》の婢の待《ま》てりしが、後《うしろ》さまに帯※[#「※」は「(尸+巾)+又」、123−1]《おびかひつくろ》ひつつ道知辺《みちしるべ》す。垣に沿ひて曲れば、玉川|砂礫《ざり》を敷きたる径《こみち》ありて、出外《ではづ》るれば子爵家の構内《かまへうち》にて、三棟《みむね》並べる塗籠《ぬりごめ》の背後《うしろ》に、桐《きり》の木高く植列《うゑつら》ねたる下道《したみち》の清く掃いたるを行窮《ゆきつむ》れば、板塀繞《いたべいめぐ》らせる下屋造《げやつくり》の煙突より忙《せは》しげなる煙《けふり》立昇りて、折しも御前籠《ごぜんかご》舁入《かきい》るるは通用門なり。貫一もこれを入《い》りて、余所《よそ》ながら過来《すぎこ》し厨《くりや》に、酒の香《か》、物煮る匂頻《にほひしき》りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響《ひしめき》したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間《ひとま》に導かれぬ。

     (四) の 二

 畔柳元衛《くろやなぎもとえ》の娘|静緒《しずお》は館《やかた》の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持《とりもち》に召れて、高髷《たかわげ》、変裏《かはりうら》に粧《よそひ》を改め、お傍不去《そばさらず》に麁略《そりやく》あらせじと冊《かしづ》くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先《ま》づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子《まはりばしご》の半《なかば》を昇行《のぼりゆ》く後姿《うしろすがた》に、その客の如何《いか》に貴婦人なるかを窺《うかが》ふべし。鬘《かつら》ならではと見ゆるまでに結做《ゆひな》したる円髷《まるわげ》の漆の如きに、珊瑚《さんご》の六分玉《ろくぶだま》の後挿《うしろざし》を点じたれば、更に白襟《しろえり》の冷※[#「※」は「豐+盍」、123−12]《れいえん》物の類《たぐ》ふべき無く、貴族鼠《きぞくねずみ》の※[#「※」は「糸+芻」、123−12]高縮緬《しぼたかちりめん》の五紋《いつつもん》なる単衣《ひとへ》を曳《ひ》きて、帯は海松《みる》色地に装束《しようぞく》切摸《きれうつし》の色紙散《しきしちらし》の七糸《しちん》を高く負ひたり。淡紅色《ときいろ》紋絽《もんろ》の長襦袢《ながじゆばん》の裾《すそ》は上履《うはぐつ》の歩《あゆみ》に緩《ゆる》く匂零《にほひこぼ》して、絹足袋《きぬたび》の雪に嫋々《たわわ》なる山茶花《さざんか》の開く心地す。
 この麗《うるはし》き容《かたち》をば見返り勝に静緒は壁側《かべぎは》に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯《うつむ》きて昇《のぼ》れるに、櫛《くし》の蒔絵《まきゑ》のいと能《よ》く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失《そこ》ねて、凄《すさまじ》き響の中にあなや僵《たふ》れんと為《し》たり。幸《さいはひ》に怪我《けが》は無かりけれど、彼はなかなか己《おのれ》の怪我などより貴客《きかく》を駭《おどろ》かせし狼藉《ろうぜき》をば、得も忍ばれず満面に慚《は》ぢて、
「どうも飛んだ麁相《そそう》を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処《どこ》もお傷《いた》めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚《びつくり》遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こ度《たび》は薄氷《はくひよう》を蹈《ふ》む想《おもひ》して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些《ちよつ》とお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌《あわ》て驚きて、
「あれ、恐入《おそれい》ります」
「可《よ》うございますよ。さあ、熟《じつ》として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずして竟《つひ》に貴婦人の手を労《わづらは》せし彼の心は、溢《あふ》るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫《かをり》あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書《じよししよ》の内訓《ないくん》に出でたりとて屡《しばし》ば父に聴さるる「五綵服《ごさいふく》を盛《さかん》にするも、以つて身の華《か》と為すに足らず、貞順道《ていじゆんみち》に率《したが》へば、乃《すなは》ち以つて婦徳を進むべし」の本文《ほんもん》に合《かな》ひて、かくてこそ始めて色に矜《ほこ》らず、その徳に爽《そむ》かずとも謂ふべきなれ。愛《め》でたき人にも遇《あ》へるかなと絶《したたか》に思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北《にしきた》の窓に寄り行きて、効々《かひがひ》しく緑色の帷《とばり》を絞り硝子戸《ガラスど》を繰揚《くりあ》げて、
「どうぞ此方《こちら》へお出《いで》あそばしまして。ここが一番|見晴《みはらし》が宜《よろし》いのでございます」
「まあ、好《よ》い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相|木犀《もくせい》が匂《にほ》ひますね、お邸内《やしきうち》に在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽《しゆうせい》の朗《ほがらか》に濶《ひろ》くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色《おももち》して佇《たたず》めり。窓を争ひて射入《さしい》る日影は斜《ななめ》にその姿を照して、襟留《えりどめ》なる真珠は焚《も》ゆる如く輝きぬ。塵《ちり》をだに容《ゆる》さず澄みに澄みたる添景の中《うち》に立てる彼の容華《かほばせ》は清く鮮《あざやか》に見勝《みまさ》りて、玉壺《ぎよくこ》に白き花を挿《さ》したらん風情《ふぜい》あり。静緒は女ながらも見惚《みと》れて、不束《ふつつか》に眺入《ながめい》りつ。
 その目の爽《さはやか》にして滴《したた》るばかり情《なさけ》の籠《こも》れる、その眉《まゆ》の思へるままに画《えが》き成せる如き、その口元の莟《つぼみ》ながら香《か》に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃《きめこまやか》に光をさへ帯びたる、色の透《とほ》るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢《つややか》に、頭《かしら》も重げに束《つか》ねられたれど、髪際《はへぎは》の少《すこし》く打乱れたると、立てる容《かたち》こそ風にも堪《た》ふまじく繊弱《なよやか》なれど、面《おもて》の痩《やせ》の過ぎたる為に、自《おのづか》ら愁《うれはし》う底寂《そこさびし》きと、頸《えり》の細きが折れやしぬべく可傷《いたはし》きとなり。
 されどかく揃《そろ》ひて好き容量《きりよう》は未《いま》だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外《ふみはづ》せし麁忽《そこつ》ははや忘れて、見据うる流盻《ながしめ》はその物を奪はんと覘《ねら》ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌《かたち》ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍《かたはら》には見劣せらるること夥《おびただし》かり。彼は己《おのれ》の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止《や》まざりき。実《げ》にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿《さ》せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧《は》づべき。婦《をんな》の徳をさへ虧《か》かでこの嬋娟《あでやか》に生れ得て、しかもこの富めるに遇《あ》へる、天の恵《めぐみ》と世の幸《さち》とを併《あは》せ享《う》けて、残る方《かた》無き果報のかくも痛《いみじ》き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者《ふたつ》は※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、126−2]《かな》はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸《さいはひ》は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨《ものうらやみ》の念強けれど、妬《ねた》しとは及び難くて、静緒は心に畏《おそ》るるなるべし。
 彼は貴婦人の貌《かたち》に耽《ふけ》りて、その※[#「※」は「肄−聿+欠」、126−5]待《もてなし》にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西《フランス》より持ち帰られし名器なるを、漸《やうや》く取出《とりいだ》して薦《すす》めたり。形は一握《いちあく》の中に隠るるばかりなれど、能《よ》く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉《ぎよく》もて造られ、僅《わづか》に黄金《きん》細工の金具を施したるのみ。
 やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措《お》くを忘らるるまでに愛《め》でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽《ながめつく》されて、彼はこの鏡《グラス》の凡《ただ》ならず精巧なるに驚ける状《さま》なり。
「那処《あすこ》に遠く些《ほん》の小楊枝《こようじ》ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄《あさぎ》に赤い柳条《しま》の模様まで昭然《はつきり》見えて、さうして旗竿《はたさを》の頭《さき》に鳶《とび》が宿《とま》つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度《たんと》御座いませんさうで、招魂社《しようこんしや》のお祭の時などは、狼煙《のろし》の人形が能《よ》く見えるのでございます。私はこれを見まする度《たび》にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜《よろし》うございませう。余《あんま》り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方《あちこち》の音が一所に成つて粉雑《ごちやごちや》になつて了《しま》ひませう」
 かく言ひて斉《ひとし》く笑へり。静緒は客遇《きやくあしらひ》に慣れたれば、可羞《はづか》しげに見えながらも話を求むるには拙《つたな》からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴《いただ》きました折、殿様に全然《すつかり》騙《だま》されましたのでございます。鼻の前《さき》に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直《すぐ》にその眼鏡を耳に推付《おつつ》けて見ろ、早くさへ耳に推付《おつつ》ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
 淀無《よどみな》く語出《かたりい》づる静緒の顔を見
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