求めざるべからざる微恙《びよう》を得ることあり。
朗《ほがらか》に秋の気澄みて、空の色、雲の布置《ただずまひ》匂《にほ》はしう、金色《きんしよく》の日影は豊に快晴を飾れる南受《みなみうけ》の縁障子を隙《すか》して、爽《さはやか》なる肌寒《はださむ》の蓐《とこ》に長高《たけたか》く痩《や》せたる貫一は横《よこた》はれり。蒼《あを》く濁《にご》れる頬《ほほ》の肉よ、※[#「※」は「骨+堯」、114−6]《さらば》へる横顔の輪廓《りんかく》よ、曇の懸れる眉《まゆ》の下に物思はしき眼色《めざし》の凝りて動かざりしが、やがて崩《くづ》るるやうに頬杖《ほほづゑ》を倒して、枕嚢《くくりまくら》に重き頭《かしら》を落すとともに寝返りつつ掻巻《かいまき》引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣《なげや》りて仰向になりぬ。折しも誰《たれ》ならん、階子《はしご》を昇来《のぼりく》る音す。貫一は凝然として目を塞《ふた》ぎゐたり。紙門《ふすま》を啓《あ》けて入来《いりきた》れるは主《あるじ》の妻なり。貫一の慌《あわ》てて起上るを、そのままにと制して、机の傍《かたはら》に坐りつ。
「紅茶を淹《い》れましたからお上んなさい。少しばかり栗《くり》を茹《ゆ》でましたから」
手籃《てかご》に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭《まくらもと》に置きて、
「気分はどうです」
「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々|御馳走様《ごちそうさま》でございます」
「冷めない内にお上んなさい」
彼は会釈して珈琲茶碗《カフヒイちやわん》を取上げしが、
「旦那《だんな》は何時《いつ》頃お出懸《でかけ》になりました」
「今朝は毎《いつも》より早くね、氷川《ひかわ》へ行くと云つて」
言ふも可疎《うとま》しげに聞えけれど、さして貫一は意《こころ》も留めず、
「はあ、畔柳《くろやなぎ》さんですか」
「それがどうだか知れないの」
お峯は苦笑《にがわらひ》しつ。明《あきらか》なる障子の日脚《ひざし》はその面《おもて》の小皺《こじわ》の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛《くし》の歯通りて、一髪《いつぱつ》を乱さず円髷《まるわげ》に結ひて顔の色は赤き方《かた》なれど、いと好く磨《みが》きて清《きよら》に滑《なめらか》なり。鼻の辺《あたり》に薄痘痕《うすいも》ありて、口を引窄《ひきすぼ》むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅《くろ》めたるが、かかるをや烏羽玉《ぬばたま》とも謂《い》ふべく殆《ほとん》ど耀《かがや》くばかりに麗《うるは》し。茶柳条《ちやじま》のフラネルの単衣《ひとへ》に朝寒《あささむ》の羽織着たるが、御召|縮緬《ちりめん》の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為《なぜ》ですか」
お峯は羽織の紐《ひも》を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅《ためら》へる風情《ふぜい》なるを、強《し》ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃《かご》なる栗を取りて剥《む》きゐたり。彼は姑《しばら》く打案ぜし後、
「あの赤樫《あかがし》の別品《べつぴん》さんね、あの人は悪い噂《うはさ》が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物《くひもの》に為るとか云ふ……」
貫一は覚えず首を傾けたり。曩《さき》の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴《あいつ》男を引掛けなくても金銭《かね》には窮《こま》らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可《い》けない。お前さんなんぞもべいろしや[#「べいろしや」に傍点]組の方ですよ。金銭《かね》が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方《こつち》へお貸しなさい」
「これは憚様《はばかりさま》です」
お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々《まじまじ》と手を束《つか》ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便《たより》あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択《えら》みて、その頂《いただき》よりナイフを加へつ。
「些《ちよい》と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人《かたじん》だから可いけれど、本当にあんな者に係合《かかりあ》ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣《や》ると云ふのは評判ですよ。金窪《かなくぼ》さん、鷲爪《わしづめ》さん、それから芥原《あくたはら》さん、皆《みんな》その話をしてゐましたよ」
「或《あるひ》はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内《うち》の人も同《おんな》じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
お峯がナイフを執れる手は漸《やうや》く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
お峯は又一つ取りて剥《む》き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運《はこび》は愈《いよい》よ等閑《なほざり》なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処《ここ》きりの話ですからね」
「承知しました」
貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹《き》とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自《おのづ》から潜《ひそま》りぬ。
「どうも私はこの間から異《をかし》いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫《ひと》があの別品さんに係合《かかりあひ》を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑《ゆすりわらひ》して、
「そんな馬鹿な事が、貴方《あなた》……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房《にようぼ》の私が……それはもう間違無しよ!」
貫一は熟《じつ》と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳《いくつ》でしたな」
「五十一、もう爺《ぢぢい》ですわね」
彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの!!」
息巻くお峯の前に彼は面《おもて》を俯《ふ》して言はず、静に思廻《おもひめぐ》らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言《ことば》を継がざりしが、さて徐《おもむろ》に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾《めかけ》も楽《たのしみ》も可うございます。これが芸者だとか、囲者《かこひもの》だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫《あかがし》さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡《ただ》の代物《しろもの》ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火《ちんちん》なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落《しやれ》た沙汰《さた》ぢやありはしません。あんな者に係合《かかりあ》つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫《ひと》もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異《をかし》いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶《しや》れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下《したておろ》し渾成《づくめ》で、その奇麗事と謂《い》つたら、何《いつ》が日《ひ》にも氷川へ行くのにあんなに※[#「※」は「靜−爭+見」、119−3]《めか》した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒《はがゆ》くて心|苛《いら》つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥《いよい》よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気《りんき》で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手《あひて》が悪いからねえ」
思ひ直せども貫一が腑《ふ》には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃《いつごろ》からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然《しか》し、何《な》にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤《とつく》り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処《そこ》を突止めたいのだけれど、私の体《からだ》ぢや戸外《おもて》の様子が全然《さつぱり》解らないのですものね」
「御尤《ごもつとも》」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在《いで》でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉《かな》、紅茶と栗と、と貫一はその余《あまり》に安く売られたるが独《ひと》り可笑《をかし》かりき。
「いえ、一向|差支《さしつかへ》ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余《あんま》りお気の毒ね」
彼の赤き顔の色は耀《かがや》くばかりに懽《よろこ》びぬ。
「御遠慮無く有仰《おつしや》つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
お峯は彼が然諾《ぜんだく》の爽《さはやか》なるに遇《あ》ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧《はづかし》く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若《も》し行つたのなら、何頃《いつごろ》行つて何頃帰つたか、なあに、十《とを》に九《ここのつ》まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
彼は起ちて寝衣帯《ねまきおび》を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今|俥《くるま》を呼びに遣《や》るから」
かく言捨ててお峯は忙《せはし》く階子《はしご》を下行《おりゆ》けり。
迹《あと》に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩《わづら》ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損《なりそこな》つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
と端無《はしな》く思ひ浮べては漫《そぞろ》に独《ひと》り打笑《うちゑま》れつ。
第 四 章
貫一は直《ただち》に俥《くるま》を飛《とば》して氷川なる畔柳《くろやなぎ》のもとに赴《おもむ》けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入《しゆつにゆう》すべく、館《やかた》の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣《もくげがき》に取廻して、昔形気《むかしかたぎ》の内に幽《ゆか》しげに造成《つくりな》したる二階建なり。構《かまへ》の可慎《つつまし》う目立たぬに引易《ひきか》へて、木口《きぐち》の撰択《せんたく》の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
貫一も彼の主《あるじ》もこの家に公然の出入《でいり》を憚《はばか》る身なれば、玄関|側《わき》なる格子口《こうしぐち》より訪《おとづ》るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物《はきもの》は在らず。はや帰りしか、来《こ》ざりしか、或《あるひ》は未《いま》だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言《ことば》にも符号すれども、直《ただち》にこれを以て疑を容《い》るべきにあらずなど思ひつ
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