ぜん》として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自《おのづか》らなる七万石の品格は、面白《おもてしろ》う眉秀《まゆひい》でて、鼻高く、眼爽《まなこさはやか》に、形《かたち》の清《きよら》に揚《あが》れるは、皎《こう》として玉樹《ぎよくじゆ》の風前に臨めるとも謂《い》ふべくや、御代々《ごだいだい》御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。
 かかれば良縁の空《むなし》からざること、蝶《ちよう》を捉《とら》へんとする蜘蛛《くも》の糸より繁《しげ》しといへども、反顧《かへりみ》だに為《せ》ずして、例の飄然忍びては酔《ゑひ》の紛れの逸早《いつはや》き風流《みやび》に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌《いさめ》などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛《あひあい》して、末の契も堅く、月下の小舟《をぶね》に比翼の櫂《かひ》を操《あやつ》り、スプレイの流を指《ゆびさ》して、この水の終《つひ》に涸《か》るる日はあらんとも、我が恋の※[#「※」は「(諂−言)+炎」、109−7]《ほのほ》の消ゆる時あらせじ、と互の誓詞《せいし》に詐《いつはり》はあらざりけるを、帰りて母君に請《こ》ふことありしに、いと太《いた》う驚かれて、こは由々《ゆゆ》しき家の大事ぞや。夷狄《いてき》は**よりも賤《いやし》むべきに、畏《かしこ》くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣《きんじゆう》の檻《おり》と為すべき。あな、可疎《うとま》しの吾子《あこ》が心やと、涙と共に掻口説《かきくど》きて、悲《かなし》び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無《せんな》くて、心苦う思ひつつも、猶《なほ》行末をこそ頼めと文の便《たより》を度々《たびたび》に慰めて、彼方《あなた》も在るにあられぬ三年《みとせ》の月日を、憂《う》きは死ななんと味気《あぢき》なく過せしに、一昨年《をととし》の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存《ながら》へかねし身の苦悩《くるしみ》を、御神《みかみ》の恵《めぐみ》に助けられて、導かれし天国の杳《よう》として原《たづ》ぬべからざるを、いとど可懐《なつか》しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念|益《ますま》す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐《ただおもひ》を亡《な》き人に寄せて、形見こそ仇《あだ》ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女《かのをんな》が十九の春の色を苦《ねんごろ》に手写《しゆしや》して、嘗《かつ》て貽《おく》りしものなりけり。
 殿はこの失望の極|放肆《ほうし》遊惰の裏《うち》に聊《いささ》か懐《おもひ》を遣《や》り、一具の写真機に千金を擲《なげう》ちて、これに嬉戯すること少児《しように》の如く、身をも家をも外《ほか》にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛《くろやなぎもとえ》ありて、その人|迂《う》ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴《いただ》ける田鶴見家も、幸《さいはひ》に些《さ》の破綻《はたん》を生ずる無きを得てけり。
 彼は貨殖の一端として密《ひそか》に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至《ないし》一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以《も》て、高利貸の大口を引受くる輩《はい》のここに便《たよ》らんとせざるはあらず。されども慧《さかし》き畔柳は事の密なるを策の上と為《な》して叨《みだり》に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵|直行《ただゆき》の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺《いづれ》にか金穴《きんけつ》あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。
 鰐淵《わにぶち》の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯《うしろだて》ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂《い》ふにも足らぬ足軽頭《あしがるがしら》に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後《のち》出《い》でて小役人を勤め、転じて商社に事《つか》へ、一時|或《あるひ》は地所家屋の売買を周旋し、万年青《おもと》を手掛け、米屋町《こめやまち》に出入《しゆつにゆう》し、何《いづ》れにしても世渡《よわたり》の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟《つひ》には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金《きん》これ権《けん》と感ずるところありて、奉職中|蓄得《たくはへえ》たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未《いま》だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或《ある》は欺き、或は嚇《おど》し、或は賺《すか》し、或は虐《しひた》げ、纔《わづか》に法網を潜《くぐ》り得て辛《から》くも繩附《なはつき》たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比《ころ》、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎《とら》に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆《ほとん》ど数万に上るとぞ聞えし。
 畔柳はこの手より穫《とりい》るる利の半《なかば》は、これを御殿《ごてん》の金庫に致し、半はこれを懐《ふところ》にして、鰐淵もこれに因《よ》りて利し、金《きん》は一《いつ》にしてその利を三にせる家令が六臂《ろつぴ》の働《はたらき》は、主公が不生産的なるを補ひて猶《なほ》余ありとも謂《い》ふべくや。
 鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢《すてばち》の身を寄せて、牛頭馬頭《ごずめず》の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年《よとせ》の今日《こんにち》まで寄寓《きぐう》せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇《あつか》はれ、手代となり、顧問となりて、主《あるじ》の重宝大方ならざれば、四年《よとせ》の久《ひさし》きに弥《わた》れども主は彼を出《いだ》すことを喜ばず、彼もまた家を構《かま》ふる必要無ければ、敢《あへ》て留るを厭《いと》ふにもあらで、手代を勤むる傍《かたはら》若干《そくばく》の我が小額をも運転して、自《おのづか》ら営む便《たより》もあれば、今|憖《なまじ》ひにここを出でて痩臂《やせひぢ》を張らんよりは、然《しか》るべき時節の到来を待つには如《し》かじと分別せるなり。彼は啻《ただ》に手代として能《よ》く働き、顧問として能く慮《おもんぱか》るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢《よはひ》を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己《おのれ》を衒《てら》はず、他《ひと》を貶《おとし》めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有《ありがた》き若者なり、と鰐淵は寧《むし》ろ心陰《こころひそか》に彼を畏《おそ》れたり。
 主《あるじ》は彼の為人《ひととなり》を知りし後《のち》、如此《かくのごと》き人の如何《いか》にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己《おのれ》の履歴を詐《いつは》りて、如何なる失望の極身をこれに墜《おと》せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕《あらは》れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿《せんさく》もせられで、やがては、暖簾《のれん》を分けて屹《きつ》としたる後見《うしろみ》は為てくれんと、鰐淵は常に疎《おろそか》ならず彼が身を念《おも》ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯《みね》は四十六なり。夫は心|猛《たけ》く、人の憂《うれひ》を見ること、犬の嚏《くさめ》の如く、唯貪《ただむさぼ》りて※[#「※」は「厭/食」、112−4]《あ》くを知らざるに引易へて、気立《きだて》優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有《も》てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義《りちぎ》に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更《なほさら》にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。
 いと幸《さち》ありける貫一が身の上|哉《かな》。彼は世を恨むる余《あまり》その執念の駆《か》るままに、人の生ける肉を啖《くら》ひ、以つて聊《いささ》か逆境に暴《さら》されたりし枯膓《こちよう》を癒《いや》さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起《ほつき》せる心中には、百の呵責《かしやく》も、千の苦艱《くげん》も固《もと》より期《ご》したるを、なかなかかかる寛《ゆたか》なる信用と、かかる温《あたたか》き憐愍《れんみん》とを被《かうむ》らんは、羝羊《ていよう》の乳《ち》を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉《かな》、彼はこの喜を如何《いか》に喜びけるか。今は呵責をも苦艱《くげん》をも敢《あへ》て悪《にく》まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終《つひ》には慾の為に剥《は》がれ、この憐愍《れんみん》も利の為に吝《をし》まるる時の目前なるべきを固く信じたり。

     (三) の 二

 毒は毒を以て制せらる。鰐淵《わにぶち》が債務者中に高利借の名にしおふ某《ぼう》党の有志家某あり。彼は三年来|生殺《なまごろし》の関係にて、元利五百余円の責《せめ》を負ひながら、奸智《かんち》を弄《ろう》し、雄弁を揮《ふる》ひ、大胆不敵に構《かま》へて出没自在の計《はかりごと》を出《いだ》し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係《かか》りては、逆捩《さかねぢ》を吃《く》ひて血反吐《ちへど》を噴《はか》されし者|尠《すくな》からざるを、鰐淵は弥《いよい》よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿《かなてこ》も折れぬべきに持余しつるを、克《かな》はぬまでも棄措《すてお》くは口惜《くちをし》ければ、せめては令見《みせしめ》の為にも折々|釘《くぎ》を刺して、再び那奴《しやつ》の翅《はがい》を展《の》べしめざらんに如《し》かずと、昨日《きのふ》は貫一の曠《ぬか》らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
 彼は散々に飜弄《ほんろう》せられけるを、劣らじと罵《ののし》りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣《や》らで壮《さかん》に言争ひしが、病者に等き青二才と侮《あなど》りし貫一の、陰忍《しんねり》強く立向ひて屈する気色《けしき》あらざるより、有合ふ仕込杖《しこみつゑ》を抜放し、おのれ還《かへ》らずば生けては還さじと、二尺|余《あまり》の白刃を危《あやふ》く突付けて脅《おびやか》せしを、その鼻頭《はなさき》に待《あしら》ひて愈《いよい》よ動かざりける折柄《をりから》、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来《かへりき》にけるが、これが為に彼の感じ易《やす》き神経は甚《はなはだし》く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転《うた》た勝《すぐ》れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠《ひきこも》れるなりけり。かかることありし翌日は夥《おびただし》く脳の憊《つか》るるとともに、心乱れ動きて、その憤《いか》りし後《のち》を憤り、悲みし後を悲まざれば已《や》まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故《ゆゑ》に彼は折に触れつつその体《たい》の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸《やうや》く慣れてけれど、彼の心は決《け》してこの悪を作《な》すに慣れざりき。唯能《ただよ》く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来《じらい》終天の失望と恨との一日《いちじつ》も忘るる能《あた》はざるが為に、その苦悶《くもん》の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪《た》ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或《ある》は人の加ふる侮辱に堪《た》へずして、神経の過度に亢奮《こうふん》せらるる為に、一日の調摂を
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