れば御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」
「返事と言はれたつて、有仰《おつしや》ることの主意が能《よ》く解らんのですもの」
「何故《なぜ》お了解《わかり》になりませんの」
責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰《なじ》るが如く見返しつ。
「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処《あすこ》を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」
「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」
「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」
「あれ、その事ではございませんてば」
「どうも非常に腹が空《す》いて来ました」
「それとも貴方|外《ほか》にお約束でも遊ばした御方がお在《あん》なさるのでございますか」
彼|終《つひ》に鋒鋩《ほうぼう》を露《あらは》し来《きた》れるよと思へば、貫一は猶《なほ》解せざる体《てい》を作《な》して、
「妙な事を聞きますね」
と苦笑せしのみにて続く言《ことば》もあらざるに、満枝は図を外《はづ》されて、やや心惑へるなりけり。
「さう云ふやうなお方がお在《あん》なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」
貫一も今は屹《きつ》と胸を据ゑて、
「うむ、解りました」
「ああ、お了解《わかり》になりまして?!」
嬉しと心を言へらんやうの気色《けしき》にて、彼の猪口《ちよく》に余《あま》せし酒を一息《ひといき》に飲乾《のみほ》して、その盃をつと貫一に差せり。
「又ですか」
「是非!」
発《はずみ》に乗せられて貫一は思はず受《うく》ると斉《ひとし》く盈々《なみなみ》注《そそが》れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜《よろこび》!
「その盃は清めてございませんよ」
一々底意ありて忽諸《ゆるがせ》にすべからざる女の言を、彼はいと可煩《わづらはし》くて持余《もてあま》せるなり。
「お了解《わかり》になりましたら、どうぞ御返事を」
「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」
僅《わづか》にかく言ひ放ちて貫一は厳《おごそ》かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔《ゑひ》を冷《さま》して、彼の気色《けしき》を候《うかが》ひたりしに、例の言寡《ことばすくな》なる男の次いでは言はざれば、
「私もこんな可耻《はづかし》い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
貫一は緩《ゆるや》かに頷《うなづ》けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々《よくよく》の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰《おつしや》つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤《ごもつとも》です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹《つつ》まず自分の考量《かんがへ》をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆《ひと》とは大きに考量が違つてをります。
第一、私は一生|妻《さい》といふ者は決《け》して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷《や》めて、この商売を始めたのは、放蕩《ほうとう》で遣損《やりそこな》つたのでもなければ、敢《あへ》て食窮《くひつ》めた訳でも有りませんので。書生が可厭《いや》さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外《ほか》に幾多《いくら》も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日《はくじつ》盗《とう》を為《な》すと謂《い》はうか、病人の喉口《のどくち》を干《ほ》すと謂《い》はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択《えら》むものですか」
聴居る満枝は益《ますま》す酔《ゑひ》を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日《こんにち》始めて知つたのではない、知つて身を堕《おと》したのは、私は当時|敵手《さき》を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念|極《きはま》る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼《たのみ》にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
火影《ひかげ》を避けんとしたる彼の目の中に遽《にはか》に耀《かがや》けるは、なほ新《あらた》なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少《たのみすくな》い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原《もと》はと云へば、金銭《かね》からです。仮初《かりそめ》にも一匹《いつぴき》の男子たる者が、金銭《かね》の為に見易《みか》へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一《い》……一生忘れられんです。
軽薄でなければ詐《いつはり》、詐でなければ利慾、愛相《あいそ》の尽きた世の中です。それほど可厭《いや》な世の中なら、何為《なぜ》一思《ひとおもひ》に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障《さはり》になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐《ふくしゆう》などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹《きつ》と霽《はら》さなければ措《お》かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全《まる》で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚《はなはだし》い、殆《ほとん》ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴《あら》してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭《かね》ゆゑに売られもすれば、辱《はづかし》められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽《たのしみ》に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望《のぞみ》も持たんのです。又考へて見ると、憖《なまじ》ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐《はる》か頼《たのみ》になりますよ。頼にならんのは人の心です!
先《まづ》かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰《おつしや》る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
彼は仰ぎて高笑《たかわらひ》しつつも、その面《おもて》は痛く激したり。
満枝は、彼の言《ことば》の決して譌《いつはり》ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実《げ》にさるべき所見《かんがへ》を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故《ゆゑ》に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉《とびら》を閉ぢて、詐《いつはり》と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁《さと》らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙《たやす》く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌《きらひ》で、総《すべ》ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚《ほ》れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解《わかり》になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
今は取付く島も無くて、満枝は暫《しば》し惘然《ぼうぜん》としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
打萎《うちしを》れつつ満枝は飯《めし》を盛りて出《いだ》せり。
「これは恐入ります」
彼は啖《くら》ふこと傍《かたはら》に人無き若《ごと》し。満枝の面《おもて》は薄紅《うすくれなゐ》になほ酔《ゑひ》は有りながら、酔《よ》へる体《てい》も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
かく会釈して貫一は三盃目《さんばいめ》を易《か》へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣《ふく》みて遽《にはか》に応《こた》ふる能《あた》はず、唯目を挙《あ》げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時《しばらく》胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶《ことわり》を受けては、私実に面目《めんぼく》無くて……余《あんま》り悔《くやし》うございますわ」
慌忙《あわただし》くハンカチイフを取りて、片手に恨泣《うらみなき》の目元を掩《おほ》へり。
「面目無くて私、この座が起《たた》れません。間さん、お察し下さいまし」
貫一は冷々《ひややか》に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総《すべ》ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪《あし》からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅《おぐるめ》の件に就いてのお話は?」
泣赤《なきあか》めたる目を拭《ぬぐ》ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜《よろし》うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召《おぼしめ》して下さい。で、お可厭《いや》ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日《いつ》までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」
「承知しました」
「もつと優《やさし》い言《ことば》をお聞せ下さいましな」
「私も覚えてゐます」
「もつと何とか有仰《おつしや》りやうが有りさうなものではございませんか」
「御志は決《け》して忘れません。これなら宜いでせう」
満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然《ひらり》と貫一の身近に寄添ひて、
「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠《ちからこも》りて、その太股《ふともも》を絶《したた》か撮《つめ》れば、貫一は不意の痛に覆《くつがへ》らんとするを支へつつ横様《よこさま》に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢《をんな》を呼ぶなりけり。
第 三 章
赤坂氷川《あかさかひかわ》の辺《ほとり》に写真の御前《ごぜん》と言へば知らぬ者無く、実《げ》にこの殿の出《い》づるに写真機械を車に積みて随《したが》へざることあらざれば、自《おのづか》ら人目を※[#「※」は「しんにょう+官」、108−7]《のが》れず、かかる異名《いみよう》は呼るるにぞありける。子細《しさい》を明めずしては、「将棊《しようぎ》の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器《うつは》を抱《いだ》きながら、五年を独逸《ドイツ》に薫染せし学者風を喜び、世事を抛《なげう》ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆《ほしいまま》にすれども、なほ歳《とし》の入るものを計るに正《まさ》に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春《たづみよしはる》その人なり。
氷川なる邸内には、唐破風造《からはふづくり》の昔を摸《うつ》せる館《たち》と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造《れんがづくり》の異《あやし》きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄《すき》にて、独逸に名ある古城の面影《おもかげ》を偲《しの》びてここに象《かたど》れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充《あ》てて、万足《よろづた》らざる無き閑日月《かんじつげつ》をば、書に耽《ふけ》り、画に楽《たのし》み、彫刻を愛し、音楽に嘯《うそぶ》き、近き頃よりは専《もつぱ》ら写真に遊びて、齢《よはひ》三十四に※[#「※」は「しんにょう+台」、108−15]《およ》べども頑《がん》として未《いま》だ娶《めと》らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然《ひよう
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