隣れる金歯とを露《あらは》して片笑《かたゑ》みつつ、
「まあ、何為《なぜ》でも宜うございますから、それでは鶏肉《とり》に致しませうか」
「それも可《い》いでせう」
 三十間堀《さんじつけんぼり》に出でて、二町ばかり来たる角《かど》を西に折れて、唯《と》有る露地口に清らなる門構《かどがまへ》して、光沢消硝子《つやけしガラス》の軒燈籠《のきとうろう》に鳥と標《しる》したる方《かた》に、人目にはさぞ解《わけ》あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺《あたり》に六畳の隠座敷の板道伝《わたりづたひ》に離れたる一間に案内されしも宜《うべ》なり。
 懼《おそ》れたるにもあらず、困《こう》じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色《けしき》にて貫一の容《かたち》さへ可慎《つつま》しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸《おもひか》けざる為体《ていたらく》を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早《いちはや》く満枝が好きに計ひて、少頃《しばし》は言《ことば》無き二人が中に置れたる莨盆《たばこぼん》は子細らしう一|※[#「※」は「火+主」、94−2]《ちゆう》の百和香《ひやつかこう》を燻《くゆ》らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰《おつしや》らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘《うそ》を有仰《おつしや》いまし」
 かくても貫一は膝《ひざ》を崩《くづ》さで、巻莨入《まきたばこいれ》を取出《とりいだ》せしが、生憎《あやにく》一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先《さきん》じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷《あさえぞ》の御主殿持《ごしゆでんもち》とともに薦《すす》むる筒の端《はし》より焼金《やききん》の吸口は仄《ほのか》に耀《かがや》けり。歯は黄金《きん》、帯留は黄金《きん》、指環は黄金《きん》、腕環は黄金《きん》、時計は黄金《きん》、今又|煙管《きせる》は黄金《きん》にあらずや。黄金《きん》なる哉《かな》、金《きん》、金《きん》! 知る可《べ》し、その心も金《きん》! と貫一は独《ひと》り可笑《をか》しさに堪《た》へざりき。
「いや、私は日本莨は一向|可《い》かんので」
 言ひも訖《をは》らぬ顔を満枝は熟《じつ》と視《み》て、
「決《け》して穢《きたな》いのでは御坐いませんけれど、つい心着《こころつ》きませんでした」
 懐紙《ふところがみ》を出《いだ》してわざとらしくその吸口を捩拭《ねぢぬぐ》へば、貫一も少《すこし》く慌《あわ》てて、
「決《け》してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
 満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐《つ》きなさるなら、もう少し物覚《ものおぼえ》を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日|鰐淵《わにぶち》さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪《ひようたん》のやうな恰好《かつこう》のお煙管で、さうして羅宇《らう》の本《もと》に些《ちよつ》と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓《とみ》に塞《ふさ》がざりき。満枝は仇無《あどな》げに口を掩《おほ》ひて笑へり。この罰として貫一は直《ただち》に三服の吸付莨を強《し》ひられぬ。
 とかくする間《ま》に盃盤《はいばん》は陳《つら》ねられたれど、満枝も貫一も三|盃《ばい》を過し得ぬ下戸《げこ》なり。女は清めし猪口《ちよく》を出《いだ》して、
「貴方、お一盞《ひとつ》」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒《ビール》に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
 酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑《すす》めて酌せんとこそあるべきに、甚《はなはだし》い哉、彼の手を束《つか》ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞《ひとつ》お受け下さいましな」
 貫一は止む無くその一盞《ひとつ》を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅《おぐるめ》の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
 彼は忽《たちま》ち眉《まゆ》を攅《あつ》めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴《いただ》きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外《ほか》に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難《にく》い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様《はばかりさま》ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意《つもり》なのでございますもの」
 その媚《こび》ある目の辺《ほとり》は漸《やうや》く花桜の色に染みて、心楽しげに稍《やや》身を寛《ゆるやか》に取成したる風情《ふぜい》は、実《げ》に匂《にほひ》など零《こぼ》れぬべく、熱しとて紺の絹精縷《きぬセル》の被風《ひふ》を脱げば、羽織は無くて、粲然《ぱつ》としたる紋御召の袷《あはせ》に黒樗文絹《くろちよろけん》の全帯《まるおび》、華麗《はなやか》に紅《べに》の入りたる友禅の帯揚《おびあげ》して、鬢《びん》の後《おく》れの被《かか》る耳際《みみぎは》を掻上《かきあ》ぐる左の手首には、早蕨《さわらび》を二筋《ふたすぢ》寄せて蝶《ちよう》の宿れる形《かた》したる例の腕環の爽《さはやか》に晃《きらめ》き遍《わた》りぬ。常に可忌《いまは》しと思へる物をかく明々地《あからさま》に見せつけられたる貫一は、得堪《えた》ふまじく苦《にが》りたる眉状《まゆつき》して密《ひそか》に目を※[#「※」は「(睹−目)/(翕−合)」、97−5]《そら》しつ。彼は女の貴族的に装《よそほ》へるに反して、黒紬《くろつむぎ》の紋付の羽織に藍千筋《あゐせんすぢ》の秩父銘撰《ちちぶめいせん》の袷着て、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》も新《あたらし》からず。
 彼を識《し》れりし者は定めて見咎《みとが》むべし、彼の面影《おもかげ》は尠《すくな》からず変りぬ。愛らしかりしところは皆|失《う》せて、四年《よとせ》に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自《おのづか》ら暗き陰を成してその面《おもて》を蔽《おほ》へり。撓《たゆ》むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色《がんしよく》の表に動けども、嘗《かつ》て宮を見しやうの優き光は再びその眼《まなこ》に輝かずなりぬ。見ることの冷《ひややか》に、言ふことの謹《つつし》めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎《な》るるを憚《はばか》れば、自《みづから》もまた苟《いやしく》も親みを求めざるほどに、同業者は誰《たれ》も誰も偏人として彼を遠《とほざ》けぬ。焉《いづく》んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪《あやし》むなりけり。
 彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃《さかづき》を重ぬる体《てい》を打目戍《うちまも》れり。
「もう一盞《ひとつ》戴きませうか」
 笑《ゑみ》を漾《ただ》ふる眸《まなじり》は微醺《びくん》に彩られて、更に別様の媚《こび》を加へぬ。
「もう止したが可いでせう」
「貴方《あなた》が止せと仰有《おつしや》るなら私は止します」
「敢《あへ》て止せとは言ひません」
「それぢや私酔ひますよ」
 答無かりければ、満枝は手酌《てじやく》してその半《なかば》を傾けしが、見る見る頬の麗く紅《くれなゐ》になれるを、彼は手もて掩《おほ》ひつつ、
「ああ、酔ひましたこと」
 貫一は聞かざる為《まね》して莨を燻《くゆ》らしゐたり。
「間さん、……」
「何ですか」
「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」
「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」
 満枝は嘲《あざけら》むが如く微笑《ほほゑ》みて、
「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障《さ》へては困りますの。然《しか》し、御酒《ごしゆ》の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意《つもり》で、宜《よろし》うございますか」
「撞着《どうちやく》してゐるぢやありませんか」
「まあそんなに有仰《おつしや》らずに、高《たか》が女の申すことでございますから」
 こは事難《ことむづかし》うなりぬべし。克《かな》はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱《こまぬ》きつつ俯目《ふしめ》になりて、力《つと》めて関《かかは》らざらんやうに持成《もてな》すを、満枝は擦寄《すりよ》りて、
「これお一盞《ひとつ》で後は決《け》してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」
 貫一は些《さ》の言《ことば》も出《いだ》さでその猪口《ちよく》を受けつ。
「これで私の願は届きましたの」
「易《やす》い願ですな」と、あはや出《い》でんとせし唇《くちびる》を結びて、貫一は纔《わづか》に苦笑して止みぬ。
「間さん」
「はい」
「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未《ま》だお長くゐらつしやるお意《つもり》なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」
「勿論《もちろん》です」
「さうして、まづ何頃《いつごろ》彼方《あちら》と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」
「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」
 満枝は忽《たちま》ち声を斂《をさ》めて、物思はしげに差俯《さしうつむ》き、莨盆の縁《ふち》をば弄《もてあそ》べるやうに煙管《きせる》もて刻《きざみ》を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽《にはか》に晦《くら》むに驚きて顔を挙《あぐ》れば、又|旧《もと》の如く一間《ひとま》は明《あかる》うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫《なほしば》し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚《はなは》だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方《あちら》にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜《よろし》いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸《をこ》がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
 意外に打れたる貫一は箸《はし》を扣《ひか》へて女の顔を屹《き》と視《み》たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
 実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠《くちごも》りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫《あかがし》に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然《さつぱり》解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
 可恨《うらめ》しげに満枝は言《ことば》を絶ちて、横膝《よこひざ》に莨を拈《ひね》りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
 貫一が飯桶《めしつぎ》を引寄せんとするを、はたと抑《おさ》へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様《はばかりさま》です」
 満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀《ちやわん》をそれに伏せて、彼方《あなた》の壁際《かべぎは》に推遣《おしや》りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克《かな》はんですから赦《ゆる》して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒《ひもじ》いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛《つら》うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方《こちら》で思つてゐることが全《まる》で先方《さき》へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐《はるか》に辛うございますよ。そんなにお餒じけ
前へ 次へ
全71ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング