せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮《さかん》な女だな」
「余り壮なのは恐れる」
佐分利は頭《かしら》を抑《おさ》へて後様《うしろさま》に靠《もた》れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。
佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕《お》ちて、今はしも連帯一判、取交《とりま》ぜ五口《いつくち》の債務六百四十何円の呵責《かしやく》に膏《あぶら》を取《とら》るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後《ご》に又二百円、無疵《むきず》なるは風早と荒尾とのみ。
※[#「※」は「さんずい+氣」、86−9]車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑《ゑま》しげに傍聴したりし横浜|商人体《しようにんてい》の乗客は、幸《さいはひ》に無聊《ぶりよう》を慰められしを謝すらんやうに、懇《ねんごろ》に一揖《いつゆう》してここに下車せり。暫《しばら》く話の絶えける間《ひま》に荒尾は何をか打案ずる体《てい》にて、その目を空《むなし》く見据ゑつつ漫語《そぞろごと》のやうに言出《いひい》でたり。
「その後|誰《たれ》も間《はざま》の事を聞かんかね」
「間貫一かい」と皺嗄声《しわかれごゑ》は問反《とひかへ》せり。
「おお、誰やらぢやつたね、高利貸《アイス》の才取《さいとり》とか、手代《てだい》とかしてをると言うたのは」
蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸《アイス》の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」
我が意を得つと謂《い》はんやうに荒尾は頷《うなづ》きて、猶《なほ》も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級|先《さきだ》ちてありければ、間とは相識らざるなりき。
荒「高利貸《アイス》と云ふのはどうも妄《うそ》ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」
彼は忍びやかに太息《ためいき》を泄《もら》せり。
「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」
風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然《ぴん》と外眥《めじり》の昂《あが》つた所が目標《めじるし》さ」
蒲「さうして髪《あたま》の癖毛《くせつけ》の具合がな、愛嬌《あいきよう》が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖《ほほづゑ》を抂《つ》いて、かう下向になつて何時《いつ》でも真面目《まじめ》に講義を聴いてゐたところは、何処《どこ》かアルフレッド大王に肖《に》てゐたさ」
荒尾は仰ぎて笑へり。
「君は毎《いつ》も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃《いつぱい》を献じやう」
蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終|憶《おも》ひ出すだらうな」
「僕は実際死んだ弟《おとと》よりも間の居らなくなつたのを悲む」
愁然として彼は頭《かしら》を俛《た》れぬ。大島紬は受けたる盃《さかづき》を把《と》りながら、更に佐分利が持てる猪口《ちよく》を借りて荒尾に差しつ。
「さあ、君を慰める為に一番《ひとつ》間の健康を祝さう」
荒尾の喜は実《げ》に溢《あふ》るるばかりなりき。
「おお、それは辱《かたじけ》ない」
盈々《なみなみ》と酒を容《い》れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉《ひとし》く戞《かつ》と相撃《あひう》てば、紅《くれなゐ》の雫《しづく》の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息《ひといき》に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺《うごか》して、
「蒲田は如才ないね。面《つら》は醜《まづ》いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言《いは》れて見ると誰《たれ》でも些《ちよつ》と憎くないからね」
甘「遉《さすが》は交際官試補!」
佐「試補々々!」
風「試補々々立つて泣きに行く……」
荒「馬鹿な!」
言《ことば》を改めて荒尾は言出《いひいだ》せり。
「どうも僕は不思議でならんが、停車場《ステエション》で間を見たよ。間に違無いのじや」
唯《ただ》の今《いま》陰ながらその健康を祷《いの》りし蒲田は拍子を抜して彼の面《おもて》を眺《なが》めたり。
「ふう、それは不思議。他《むかふ》は気が着かなんだかい」
「始は待合所の入口《いりくち》の所で些《ちよつ》と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子《ソオフワア》を起つと、もう見えなくなつた。それから有間《しばらく》して又|偶然《ふつと》見ると、又見えたのじや」
甘「探偵小説だ」
荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場《プラットフォーム》へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍《そば》の柱に僕を見て黒い帽を揮《ふ》つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」
横浜! 横浜! と或《あるひ》は急に、或は緩《ゆる》く叫ぶ声の窓の外面《そとも》を飛過《とびすぐ》るとともに、響は雑然として起り、迸《ほとばし》り出《い》づる、群集《くんじゆ》は玩具箱《おもちやばこ》を覆《かへ》したる如く、場内の彼方《かなた》より轟《とどろ》く鐸《ベル》の音《ね》はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。
[#ここから章末まで2字下げ、本文とは1行アキ]
☆昨七日《さくなぬか》イ便の葉書にて(飯田町《いいだまち》局消印)美人クリイム[#「クリイム」に傍点]の語にフエアクリイム或《あるひ》はベルクリイムの傍訓有度《ぼうくんありたく》との言《げん》を貽《おく》られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊《いささ》か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人[#「美人」に傍点]の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖《なまじひ》に理詰ならむよりは、出まかせの可笑《をかし》き響あらむこそ可《よ》かめれとバイスクリイムとも思着《おもひつ》きしなり。意《こころ》は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ――バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗《くだくだ》しさを嫌《きら》ひて、更に美人[#「美人」に傍点]の二字にびじ[#「びじ」に傍点]訓を付せしを、校合者《きようごうしや》の思僻《おもひひが》めてん[#「ん」に傍点]字《じ》は添へたるなり。陋《いや》しげなるびじ[#「びじ」に傍点]クリイムの響の中《うち》には嘲弄《とうろう》の意《こころ》も籠《こも》らむとてなり。なほ高諭《こうゆ》を請《こ》ふ(三〇・九・八附読売新聞より)
第 二 章
柵《さく》の柱の下《もと》に在りて帽を揮《ふ》りたりしは、荒尾が言《ことば》の如く、四年の生死《しようし》を詳悉《つまびらか》にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自《みづから》の影を晦《くらま》し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略《あらまし》を伺ふことを怠らざりき、こ回《たび》その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所《よそ》ながら暇乞《いとまごひ》もし、二つには栄誉の錦《にしき》を飾れる姿をも見んと思ひて、群集《くんじゆ》に紛れてここには来《きた》りしなりけり。
何《なに》の故《ゆゑ》に間は四年の音信《おとづれ》を絶ち、又何の故にさしも懐《おもひ》に忘れざる旧友と相見て別《べつ》を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自《おのづか》ら解釈せらるべし。
柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独《ひと》り間貫一のみにあらず、そこもとに聚《つど》ひし老若貴賤《ろうにやくきせん》の男女《なんによ》は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞《きづか》ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一《いつ》なり。数分時の混雑の後車の出《い》づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久《ひさし》う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸《やうや》く踵《きびす》を旋《めぐら》せし時には、推重《おしかさな》るまでに柵際《さくぎは》に聚《つど》ひし衆《ひと》は殆《ほとん》ど散果てて、駅夫の三四人が箒《はうき》を執りて場内を掃除せるのみ。
貫一は差含《さしぐま》るる涙を払ひて、独り後《おく》れたるを驚きけん、遽《にはか》に急ぎて、蓬莱橋口《ほうらいばしぐち》より出《い》でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰《たれ》とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
慌《あわ》てて彼の見向く途端に、
「些《ちよつ》と」と戸口より半身を示して、黄金《きん》の腕環の気爽《けざやか》に耀《かがや》ける手なる絹ハンカチイフに唇辺《くちもと》を掩《おほ》いて束髪の婦人の小腰を屈《かが》むるに会へり。艶《えん》なる面《おもて》に得も謂《い》はれず愛らしき笑《ゑみ》をさへ浮べたり。
「や、赤樫《あかがし》さん!」
婦人の笑《ゑみ》もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉《まゆ》だに動かさず。
「好《よ》い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些《ちよつ》と此方《こち》へ」
婦人は内に入れば、貫一も渋々|跟《つ》いて入るに、長椅子《ソオフワア》に掛《かく》れば、止む無くその側《そば》に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅《おぐるめ》の件なのでございますがね」
彼は黒樗文絹《くろちよろけん》の帯の間を捜《さぐ》りて金側時計を取出《とりいだ》し、手早く収めつつ、
「貴方《あなた》どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方《どちら》へかお供を致しませう」
紫紺|塩瀬《しほぜ》に消金《けしきん》の口金《くちがね》打ちたる手鞄《てかばん》を取直して、婦人はやをら起上《たちあが》りつ。迷惑は貫一が面《おもて》に顕《あらは》れたり。
「何方《どちら》へ?」
「何方《どちら》でも、私には解りませんですから貴方《あなた》のお宜《よろし》い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有《おつしや》らずに、私は何方でも宜《よろし》いのでございます」
荒布革《あらめがは》の横長なる手鞄《てかばん》を膝の上に掻抱《かきいだ》きつつ貫一の思案せるは、その宜き方《かた》を択ぶにあらで、倶《とも》に行くをば躊躇《ちゆうちよ》せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭《であひがしら》に、入来《いりく》る者ありて、その足尖《つまさき》を挫《ひし》げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高《たけたか》き老紳士の目尻も異《あやし》く、満枝の色香《いろか》に惑ひて、これは失敬、意外の麁相《そそう》をせるなりけり。彼は猶懲《なほこ》りずまにこの目覚《めざまし》き美形《びけい》の同伴をさへ暫《しばら》く目送《もくそう》せり。
二人は停車場《ステエション》を出でて、指す方《かた》も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極《き》めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
満枝は彼の心進まざるを暁《さと》れども、勉《つと》めて吾意《わがい》に従はしめんと念《おも》へば、さばかりの無遇《ぶあしらひ》をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻※[#「※」は「魚+麗」、93−2]《うなぎ》は上《あが》りますか」
「鰻※[#「※」は「魚+麗」、93−3]? 遣りますよ」
「鶏肉《とり》と何方が宜《よろし》うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶《ごあいさつ》ですね」
「何為《なぜ》ですか」
この時貫一は始めて満枝の面《おもて》に眼《まなこ》を移せり。百《もも》の媚《こび》を含みて※[#「※」は「目+是」、93−8]《みむか》へし彼の眸《まなじり》は、未《いま》だ言はずして既にその言はんとせる半《なかば》をば語尽《かたりつく》したるべし。彼の為人《ひととなり》を知りて畜生と疎《うと》める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と
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