貫一の眼《まなこ》はその全身の力を聚《あつ》めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍《うちまも》れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息《ためいき》したり。
「宜《よろし》い、もう宜い。お前の心は能く解つた」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按《うちあん》じつつも、彼は乱るる胸を寛《ゆる》うせんが為に、強《し》ひて目を放ちて海の方《かた》を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍《かたはら》に在らずして、六七間|後《あと》なる波打際《なみうちぎは》に面《おもて》を掩《おほ》ひて泣けるなり。
可悩《なやま》しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、※[#「※」は「森」のように「水」が3つ、71−16]々《びようびよう》たる海の端《はし》の白く頽《くづ》れて波と打寄せたる、艶《えん》に哀《あはれ》を尽せる風情《ふぜい》に、貫一は憤《いかり》をも恨をも忘れて、少時《しばし》は画を看《み》る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭《かしら》を低《た》れて足の向ふままに汀《みぎは》の方《かた》へ進行きしが、泣く泣く歩来《あゆみきた》れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些《ちつと》も泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせさうよ」
殆《ほとん》ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財《かね》なのだね。如何《いか》に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相《あいそう》は尽きないかい。
好《い》い出世をして、さぞ栄耀《えよう》も出来て、お前はそれで可からうけれど、財《かね》に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂《い》はうか、口惜《くちをし》いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺《さしころ》して――驚くことは無い! ――いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺《こら》へてお前を人に奪《とら》れるのを手出しも為《せ》ずに見てゐる僕の心地《こころもち》は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他《ひと
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