《いひにく》い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言《たつたひとこと》いひたいのは、私は貴方《あなた》の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」
「だから、私は決して見棄てはしないわ」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰《ゆ》くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少《すこ》し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」
「ええ、狼狽《うろた》へてくだらんことを言ふな。食ふに窮《こま》つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰《ゆ》くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処《そこ》の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極《きま》つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰《ゆ》かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理《わけ》の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰《ゆ》くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰《ゆ》かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
 婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件《ふたつ》の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要《い》らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」
「私が悪いのだから堪忍して下さい」
「それぢや婿が不足なのだね」
「貫一さん、それは余《あんま》りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い? それぢや富山が財《かね》があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?
 翁《をぢ》さん姨《をば》さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方《ほう》は幾許《いくら》もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊《ぶちこは》して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適《い》つて見る気は有るのかい」
 
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