ると実に気障《きざ》な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面《つら》は!」
「貫一さん」母は卒《にはか》に呼びかけたり。
「はい」
「お前さん翁《をぢ》さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」
「はい」
「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口《あつこう》などを言ふものぢやありませんよ」
「はい」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥《くたびれ》だらうから、お湯にでも入つて、さうして未《ま》だ御午餐《おひる》前なのでせう」
「いえ、※[#「※」は「さんずい+氣」、64−10]車《きしや》の中で鮨《すし》を食べました」
三人《みたり》は倶《とも》に歩始《あゆみはじ》めぬ。貫一は外套《オバコオト》の肩を払はれて、後《うしろ》を捻向《ねぢむ》けば宮と面《おもて》を合せたり。
「其処《そこ》に花が粘《つ》いてゐたから取つたのよ」
「それは難有《ありがた》う!!!」
第 八 章
打霞《うちかす》みたる空ながら、月の色の匂滴《にほひこぼ》るるやうにして、微白《ほのじろ》き海は縹渺《ひようびよう》として限を知らず、譬《たと》へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠《ねむ》げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙《しようよう》せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯《ただ》胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」
五歩六歩《いつあしむあし》行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍《かんにん》して下さい」
「何も今更|謝《あやま》ることは無いよ。一体今度の事は翁《をぢ》さん姨《をば》さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可《い》いのだから」
「…………」
「此地《こつち》へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡《りようけん》のあるべき筈《はず》は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間《なか》で、知れきつた話だ。
昨夜《ゆふべ》翁さんから悉《くはし》く話があつて、その上に頼むといふ御言《おことば》だ」
差含《さしぐ》む涙に彼の声は顫《ふる》ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体《からだ》は火水《ひみづ》の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ
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