。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
 さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣《や》るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児《みなしご》でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」
 貫一は蹈留《ふみとどま》りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣《きづかは》しげにその顔を差覗《さしのぞ》きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆《みんな》私が……どうぞ堪忍して下さい」
 貫一の手に縋《すが》りて、忽《たちま》ちその肩に面《おもて》を推当《おしあ》つると見れば、彼も泣音《なくね》を洩《もら》すなりけり。波は漾々《ようよう》として遠く烟《けむ》り、月は朧《おぼろ》に一湾の真砂《まさご》を照して、空も汀《みぎは》も淡白《うすじろ》き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴《したた》りたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁《をぢ》さんが僕を説いて、お前さんの方は姨《をば》さんが説得しやうと云ふので、無理に此処《ここ》へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々《はいはい》と言つて聞いてゐたけれど、宮《みい》さんは幾多《いくら》でも剛情を張つて差支《さしつかへ》無いのだ。どうあつても可厭《いや》だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了《しま》ふのだ。僕が傍《そば》に居ると智慧《ちゑ》を付けて邪魔を為《す》ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計《はかりごと》だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜《ゆふべ》は夜一夜《よつぴて》寐《ね》はしない、そんな事は万々《ばんばん》有るまいけれど、種々《いろいろ》言はれる為に可厭《いや》と言はれない義理になつて、若《もし》や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家《うち》は学校へ出る積《つもり》で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
 馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処《どこ》に在る!! 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知《し》……知……知らなかつた」
 宮は可悲《かなしさ》と可懼《おそろしさ》に襲はれて少《すこし》く声さへ
前へ 次へ
全354ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング