んので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷《や》めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下《いでくだ》さいよ。宜《よろし》いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出《いで》なさいよ。誠に今日は残念でありますな」
彼は行かんとして、更に宮の傍《そば》近く寄来《よりき》て、
「貴方《あなた》、きつと後《のち》にお出《いで》なさいよ、ええ」
貫一は瞬《まばたき》も為《せ》で視《み》てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為《し》かねつ。娘気の可羞《はづかしさ》にかくあるとのみ思へる唯継は、益《ますます》寄添ひつつ、舌怠《したたる》きまでに語《ことば》を和《やはら》げて、
「宜《よろし》いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」
貫一の眼《まなこ》は燃ゆるが如き色を作《な》して、宮の横顔を睨着《ねめつ》けたり。彼は懼《おそ》れて傍目《わきめ》をも転《ふ》らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独《ひと》り心を慄《をのの》かせしが、猶《なほ》唯継の如何《いか》なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許《いかばかり》の幸《さいはひ》なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容《い》れず、唯|※[#「※」は「厭/食」、63−8]《あ》くまでも※[#「※」は「女+兌」、63−8]《いとし》き宮に心を遺《のこ》して行けり。
その後影《うしろかげ》を透《とほ》すばかりに目戍《まも》れる貫一は我を忘れて姑《しばら》く佇《たたず》めり。両個《ふたり》はその心を測りかねて、言《ことば》も出《い》でず、息をさへ凝して、空《むなし》く早瀬の音の聒《かしまし》きを聴くのみなりけり。
やがて此方《こなた》を向きたる貫一は、尋常《ただ》ならず激して血の色を失へる面上《おもて》に、多からんとすれども能《あた》はずと見ゆる微少《わづか》の笑《ゑみ》を漏して、
「宮《みい》さん、今の奴《やつ》はこの間の骨牌《かるた》に来てゐた金剛石《ダイアモンド》だね」
宮は俯《うつむ》きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為《まね》して、折しも啼《な》ける鶯《うぐひす》の木《こ》の間《ま》を窺《うかが》へり。貫一はこの体《てい》を見て更に嗤笑《あざわら》ひつ。
「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見
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