は些少《わづか》なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀《ねが》へる如く、木蔭《こかげ》に身を側《そば》めて、打過《うちはず》む呼吸《いき》を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩《おほ》ひて、見るは苦《くるし》けれども、見ざるも辛《つら》き貫一の顔を、俯《ふ》したる額越《ひたひごし》に窺《うかが》ひては、又唯継の気色《けしき》をも気遣《きづか》へり。
 唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾《だいはらん》ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客《しよくかく》の来《きた》れるよと、例の金剛石《ダイアモンド》の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮《あぎと》を張れり。
 貫一は今回《こたび》の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇《ひし》と言はん、今は姑《しばら》く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮《しづ》めて、苦《くるし》き笑顔《ゑがほ》を作りてゐたり。
「宮《みい》さんの病気はどうでございます」
 宮は耐《たま》りかねて窃《ひそか》にハンカチイフを咬緊《かみし》めたり。
「ああ、大きに良いので、もう二三日|内《うち》には帰らうと思つてね。お前さん能《よ》く来られましたね。学校の方は?」
「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日《あす》明後日《あさつて》と休課《やすみ》になつたものですから」
「おや、さうかい」
 唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過《あやま》ちて野中の古井《ふるゐ》に落ちたる人の、沈みも果てず、上《あが》りも得為《えせ》ず、命の綱と危《あやふ》くも取縋《とりすが》りたる草の根を、鼠《ねずみ》の来《きた》りて噛《か》むに遭《あ》ふと云へる比喩《たとへ》に最能《いとよ》く似たり。如何《いか》に為べきかと或《あるひ》は懼《おそ》れ、或は惑ひたりしが、終《つひ》にその免《まぬが》るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚《はなは》だ勝手がましうございますが、私|等《ども》はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」
「ははあ、それでは何でありますか、明朝《あす》は御一所に帰れるやうな都合になりますな」
「はい、話の模様に因《よ》りましては、さやう願はれるかも知れませ
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