なら嫌《きらひ》はございませんので」
「はははははは誰もさうです。それでは以後《これから》盛《さかん》にお遊《あす》びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京《さいきよう》でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌《おきらひ》ですか、ははあ。船が平気だと、支那《しな》から亜米利加《アメリカ》の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山《ゆさん》に行《ある》いたところで知れたもの。どんなに贅沢《ぜいたく》を為たからと云つて」
「御帰《おかへり》になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下《いでくだ》さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全《まる》で為方《しかた》が無い! こんな若い野梅《のうめ》、薪《まき》のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄《すさまし》い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走《ごちそう》を為ますよ。お宮さんは何が所好《すき》ですか、ええ、一番所好なものは?」
 彼は陰《ひそか》に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞《はづか》しげに打笑《うちゑ》めり。
「で、何日《いつ》御帰でありますか。明朝《あした》一所に御発足《おたち》にはなりませんか。此地《こつち》にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」
「はい、難有《ありがた》うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日|内《うち》には音信《たより》がございます筈《はず》で、その音信《たより》を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」
「ははあ、それぢやどうもな」
 唯継は例の倨《おご》りて天を睨《にら》むやうに打仰《うちあふ》ぎて、杖の獅子頭《ししがしら》を撫廻《なでまは》しつつ、少時《しばらく》思案する体《てい》なりしが、やをら白羽二重《しろはぶたへ》のハンカチイフを取出《とりいだ》して、片手に一揮《ひとふり》揮《ふ》るよと見れば鼻《はな》を拭《ぬぐ》へり。菫花《ヴァイオレット》の香《かをり》を咽《むせ》ばさるるばかりに薫《くん》じ遍《わた》りぬ。
 宮も母もその鋭き匂《にほひ》に驚けるなり。
「ああ
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