得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方《あちら》へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合《しあはせ》と云ふものだから、其処《そこ》を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切《おもひきり》が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇《あ》はずに行くなんて、それはお前|却《かへ》つて善くないから、矢張《やつぱり》逢つて、丁《ちやん》と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来《ゆきかよひ》をしなければならないのだもの。
 いづれ今日か明日《あした》には御音信《おたより》があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」
 宮は牀几《しようぎ》に倚《よ》りて、半《なかば》は聴き、半は思ひつつ、膝《ひざ》に散来る葩《はなびら》を拾ひては、おのれの唇に代へて連《しきり》に咬砕《かみくだ》きぬ。鶯《うぐひす》の声の絶間を流の音は咽《むせ》びて止まず。
 宮は何心無く面《おもて》を挙《あぐ》るとともに稍《やや》隔てたる木《こ》の間隠《まがくれ》に男の漫行《そぞろあるき》する姿を認めたり。彼は忽《たちま》ち眼《まなこ》を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮《さへぎ》る隙《ひま》を縫ひつつ、姑《しばら》くその影を逐《お》ひたりしが、遂《つひ》に誰《たれ》をや見出《みいだ》しけん。慌忙《あわただし》く母親に※[#「※」は「口+耳」、55−11]《ささや》けり。彼は急に牀几を離れて五六歩《いつあしむあし》進行《すすみゆ》きしが、彼方《あなた》よりも見付けて、逸早《いちはや》く呼びぬ。
「其処《そこ》に御出《おいで》でしたか」
 その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉《ひとし》く、恐れたる風情《ふぜい》にて牀几の端《はし》に竦《すくま》りつ。
「はい、唯今《ただいま》し方《がた》参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」
 母はかく挨拶《あいさつ》しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方《そなた》を見向きもやらで、彼の急足《いそぎあし》に近《ちかづ》く音を聞けり。
 母子《おやこ》の前に顕《あらは》れたる若き紳士は、その誰《たれ》なるやを説かずもあらなん。目覚《めざまし》く大《おほい》なる金剛石《ダイアモンド》の指環を輝かせるよ。柄《にぎり》には緑色の玉《ぎよく》を獅子頭《ししがしら》に彫《きざ
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