りて、船板の牀几《しようぎ》を据ゑたる木《こ》の下《もと》を指して緩《ゆる》く歩めり。彼の病は未《いま》だ快からぬにや、薄仮粧《うすげしやう》したる顔色も散りたる葩《はなびら》のやうに衰へて、足の運《はこび》も怠《たゆ》げに、動《とも》すれば頭《かしら》の低《た》るるを、思出《おもひいだ》しては努めて梢を眺《なが》むるなりけり。彼の常として物案《ものあんじ》すれば必ず唇《くちびる》を咬《か》むなり。彼は今|頻《しきり》に唇を咬みたりしが、
「御母《おつか》さん、どうしませうねえ」
 いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転《うつ》りぬ。
「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発《はじめ》にお前が適《い》きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」
「それはさうだけれど、どうも貫一《かんいつ》さんの事が気になつて。御父《おとつ》さんはもう貫一さんに話を為《な》すつたらうか、ねえ御母《おつか》さん」
「ああ、もう為すつたらうとも」
 宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若《も》し適《ゆ》くのなら、もう逢《あ》はずに直《ずつ》と行つて了《しま》ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿《うるほ》へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭《ぬぐ》へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適《い》きたいとお言ひなのだえ。さう何時《いつ》までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日|経《た》てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然《しつかり》極《き》めなくては可《い》けないよ。お前が可厭《いや》なものを無理にお出《いで》といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可《い》いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度《たび》に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強《し》ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父《とつ》さんからお話があつて、貫一さんもそれで
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