念の力ならば、決して※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、483−6]《かな》はぬ願にも無御座《ござなく》と存参《ぞんじまゐ》らせ候。
(三) の 二
昨日《さくじつ》は見舞がてらに本宅の御母様《おんははさま》参《まゐ》られ候。是《これ》は一つは唯継事《ただつぐこと》近頃|不機嫌《ふきげん》にて、とかく内を外に遊びあるき居り候処《さふらふところ》、両三日前の新聞に善からぬ噂出《うはさい》で候より、心配の余《あまり》様子見に参られ候次第にて、其事に就き私へ懇々《こんこん》の意見にて、唯継の放蕩致候《ほうとういたしさふらふ》は、畢竟《ひつきよう》内《うち》のおもしろからぬ故《ゆゑ》と、日頃の事一々誰が告げ候にや、可恥《はづかし》き迄に皆知れ候て、此後は何分心を用ゐくれ候やうにと被申候《まをされさふらふ》。私事《わたくしこと》其節《そのせつ》一思《ひとおも》ひに不法の事を申掛け、愛想《あいそ》を尽され候やうに致し、離縁の沙汰《さた》にも相成候《あひなりさふら》はば、誠に此上無き幸《さいはひ》と存付《ぞんじつ》き候へども、此姑《このしうとめ》と申候人《まをしさふらふひと》は、評判の心掛善き御方にて、殊《こと》に私をば娘のやうに思ひ、日頃《ひごろ》の厚き情《なさけ》は海山にも喩《たと》へ難きほどに候へば、なかなか辞《ことば》を返し候段にては無之《これなく》、心弱しとは思ひながら、涙の零《こぼ》れ候ばかりにて、無拠《よんどころなく》身《み》の不束《ふつつか》をも詑《わ》び申候《まをしさふらふ》次第に御座候。
此命《このいのち》御前様《おんまへさま》に捨て候ものに無御座候《ござなくさふら》はば、外には此人の為に捨て可申《まをすべく》と存候《ぞんじさふらふ》。此の御方を母とし、御前様《おんまへさま》を夫と致候て暮し候事も相|叶《かな》ひ候はば、私は土間に寐《い》ね、蓆《むしろ》を絡《まと》ひ候《さふらふ》ても、其楽《そのたのしみ》は然《さ》ぞやと、常に及ばぬ事を恋《こひし》く思居りまゐらせ候。私事相果て候はば、他人にて真《まこと》に悲みくれ候は、此世に此の御方一人《おんかたひとり》に御座あるべく、第一|然《さ》やうの人を欺き、然やうの情《なさけ》を余所《よそ》に致候《いたしさふらふ》私は、如何《いか》なる罰を受け候事かと、悲く悲く存候に、はや浅ましき死様《し
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