る事あらば、その時の人の思は如何《いか》なるべき! 可恐《おそろし》きまでに色を失へる貫一は空《むなし》く隆三の面《おもて》を打目戍《うちまも》るのみ。彼は太《いた》く困《こう》じたる体《てい》にて、長き髯をば揉みに揉みたり。
「お前に約束をして置いて、今更|変換《へんがへ》を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」
 待てども貫一の言《ことば》を出《いだ》さざれば、主《あるじ》は寡《すくな》からず惑へり。
「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家《うち》とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大《たい》した事は無いがこの家は全然《そつくり》お前に譲るのだ、お前は矢張《やはり》私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。
 約束をした宮をの、余所《よそ》へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処《そこ》はお前が能《よ》く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴《あつぱれ》の人物に成るのが第一の希望《のぞみ》であらう。その志を遂《と》げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然《しか》しこれは理窟《りくつ》で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼《たのみ》が有ると言うたのはこの事だ。
 従来《これまで》もお前を世話した、後来《これから》も益世話をせうからなう、其処《そこ》に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」
 貫一は戦《をのの》く唇《くちびる》を咬緊《くひし》めつつ、故《ことさ》ら緩舒《ゆるやか》に出《いだ》せる声音《こわね》は、怪《あやし》くも常に変れり。
「それぢや翁様《をぢさん》の御都合で、どうしても宮《みい》さんは私に下さる訳には参らんのですか」
「さあ、断《た》つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着《とんちやく》は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」
「…………」
「さうではあるまい」
「…………」
 得言はぬ貫一が胸には、理《ことわり》に似た 
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