る彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰《なじ》るべき事、罵《ののし》るべき、言破るべき事、辱《はぢし》むべき事の数々は沸《わ》くが如く充満《みちみ》ちたれど、彼は神にも勝《まさ》れる恩人なり。理非を問はずその言《ことば》には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬《か》みても、敢《あへ》て言はじと覚悟せるなり。
 彼は又思へり。恩人は恩を枷《かせ》に如此《かくのごと》く逼《せま》れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何《いか》なる斧《をの》を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情《なさけ》は我が思ふままに濃《こまやか》ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心|也《なり》と、彼は可憐《いとし》き宮を思ひて、その父に対する慍《いかり》を和《やはら》げんと勉《つと》めたり。
 我は常に宮が情《なさけ》の濃《こまやか》ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節《ばんこんさくせつ》に遇《あ》はずんば。
「嫁に遣ると有仰《おつしや》るのは、何方《どちら》へ御遣《おつかは》しになるのですか」
「それは未《ま》だ確《しか》とは極《きま》らんがの、下谷《したや》に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」
 それぞ箕輪の骨牌会《かるたかい》に三百円の金剛石《ダイアモンド》を※[#「※」は「火+玄」、49−1]《ひけら》かせし男にあらずやと、貫一は陰《ひそか》に嘲笑《あざわら》へり。されど又余りにその人の意外なるに駭《おどろ》きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟《いやし》くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰《たれ》かは恋ひざらん。独《ひと》り怪しとも怪きは隆三の意《こころ》なる哉《かな》。我《わが》十年の約は軽々《かろがろし》く破るべきにあらず、猶《なほ》謂無《いはれな》きは、一人娘を出《いだ》して嫁《か》せしめんとするなり。戯《たはむ》るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧《むし》ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇《ちか》かるべしと信じたりき。
 彼は競争者の金剛石《ダイアモンド》なるを聞きて、一度《ひとたび》は汚《けが》され、辱《
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