べ》那裏《あちら》のお客様がお帰《かへり》になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」
「ああ、あのお客は昨夜《ゆふべ》は帰らずか」
「はい、お帰《かへり》が御座りやせん」
 貫一はかの客の間の障子を開放《あけはな》したるを見て、咥楊枝《くはへようじ》のまま欄杆伝《てすりづた》ひに外《おもて》を眺め行く態《ふり》して、その前を過《すぐ》れば、床の間に小豆革《あづきがは》の手鞄《てかばん》と、浅黄《あさぎ》キャリコの風呂敷包とを並《なら》べて、傍《そば》に二三枚の新聞紙を引※[#「※」は「捏」の「日」の部分が「臼」、418−16]《ひつつく》ね、衣桁《いこう》に絹物の袷《あはせ》を懸けて、その裾《すそ》に紺の靴下を畳置きたり。
 さては少《すこし》く本意無《ほいな》きまでに、座敷の内には見出《みいだ》すべき異状も有らで、彼は宿帳に拠《よ》りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢《あへ》て背《そむ》くところ有りとも覚えざるなりき。
 拍子抜して返《もど》れる貫一は、心私《こころひそか》にその臆測の鑿《いりほが》なりしを※[#「※」は「女+鬼」、419−2]《は》ぢざるにもあらざれど、又これが為に、直《ただ》ちに彼の濡衣《ぬれぎぬ》を剥去《はぎさ》るまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人《まちびと》の如何《いか》なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎《もたら》し来《きた》るべき彼の帰来《かへり》の程を、陰ながら最更《いとさら》に遅しと待てり。
 夜は山精木魅《さんせいもくび》の出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽《いんしんせいゆう》の気を凝《こら》すに反してこの霽朗《せいろう》なる昼間の山容水態は、明媚《めいび》争《いかで》か画《が》も如《し》かん、天色大気も殆《ほとん》ど塵境以外《じんきよういがい》の感無くんばあらず。黄金《こがね》を織作《おりな》せる羅《うすもの》にも似たる麗《うるはし》き日影を蒙《かうむ》りて、万斛《ばんこく》の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭《らんとう》の山を枕に恍惚《こうこつ》として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽《あわただし》き跫音《あしおと》の廊下を動《うごか》し来《きた》るに駭《おどろか》されて、起回《おきかへ》りさまに頭《かしら》を捻向《ねぢむく》れば、何事とも知らず、年嵩《としかさ》の婢《を
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