東北は山又山を重ねて、琅※[#「※」は「王+干」、406−9]《ろうかん》の玉簾《ぎよくれん》深く夏日の畏《おそ》るべきを遮《さへぎ》りたれば、四面|遊目《ゆうもく》に足りて丘壑《きゆうかく》の富を擅《ほしいまま》にし、林泉の奢《おごり》を窮《きは》め、又有るまじき清福自在の別境なり。
貫一はこの絵を看《み》る如き清穏《せいおん》の風景に値《あ》ひて、かの途上《みちすがら》険《けはし》き巌《いはほ》と峻《さかし》き流との為に幾度《いくたび》か魂《こん》飛び肉銷《にくしよう》して、理《をさ》むる方《かた》無く掻乱《かきみだ》されし胸の内は靄然《あいぜん》として頓《とみ》に和《やはら》ぎ、恍然《こうぜん》として総《すべ》て忘れたり。
彼は以為《おもへ》らく。
誠に好くこそ我は来《き》つれ! なんぞ来《きた》るの甚《はなは》だ遅かりし。山の麗《うるは》しと謂《い》ふも、壌《つち》の堆《うづたか》き者のみ、川の暢《のどけ》しと謂ふも、水の逝《ゆ》くに過ぎざるを、牢《ろう》として抜く可からざる我が半生の痼疾《こしつ》は、争《いか》で壌《つち》と水との医《い》すべき者ならん、と歯牙《しが》にも掛けず侮《あなど》りたりし己《おのれ》こそ、先づ侮らるべき愚《おろか》の者ならずや。
看《み》よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀《ひいづ》る峰も、流るる渓《たに》も、峙《そばだ》つ巌《いはほ》も、吹来《ふきく》る風も、日の光も、鶏《とり》の鳴く音《ね》も、空の色も、皆|自《おのづか》ら浮世の物ならで、我はここに憂《うれひ》を忘れ、悲《かなしみ》を忘れ、苦《くるしみ》を忘れ、労《つかれ》を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希《こひねが》はくは今より如此《かくのごと》くして我生を了《をは》らん哉《かな》。
恋も有らず、怨《うらみ》も有らず、金銭《ぜに》も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止《た》だ天然の無垢《むく》にして、形骸《けいがい》を安きのみなるこの里、我思《わがおもひ》を埋《うづ》むるの里か、吾骨を埋るの里か。
性来多く山水の美に親《したし》まざりし貫一は、殊《こと》に心の往くところを知らざるばかりに愛《め》で悦《よろこ》びて、清琴楼の二階座敷に案内《あない》されたれ
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