る、その石もこれなりけん、と肩は自《おのづ》と聳《そび》えて、久く留《とどま》るに堪《た》へず。
数歩《すほ》を行けば、宮が命を沈めしその淵《ふち》と見るべき処も、彼が釈《と》けたる帯を曳《ひ》きしその巌《いはほ》も、歴然として皆在らざるは無し! 貫一が髪毛《かみのけ》は針《はり》の如く竪《た》ちて戦《そよ》げり。彼の思は前夜の悪夢を反復《くりかへ》すに等《ひとし》き苦悩を辞する能はざればなり。
夢ながら可恐《おそろし》くも、浅ましくも、悲くも、可傷《いたまし》くも、分《わ》く方無くて唯一図に切なかりしを、事もし一塲の夢にして止《とどま》らざらんには、抑《そもそ》も如何《いかん》! 今や塩原の実景は一々《いちいち》夢中の見るところ、然らばこの景既に夢ならず! 思掛《おもひが》けずもここに来にける吾身もまた夢ならず! 但《ただ》夢に欠く者とては宮|一箇《ひとり》のみ。纔《わづか》に彼のここに来《きた》らざるのみ!!
貫一はかく思到りて、我又夢に入りたるにあらざるかと疑はんとも為つ。夢ならずと為《せ》ば、我は由無《よしな》き処に来にけるよ。幸《さいはひ》に夢に似る事無くてあれかし。異《あや》しとも甚《はなは》だ異し! 疾《と》く往きて、疾く還《かへ》らんと、遽《にはか》に率《ひきゐ》し俥《くるま》に乗りて、白倉山《しらくらやま》の麓《ふもと》、塩釜《しおがま》の湯《ゆ》、高尾塚《たかおづか》、離室《はなれむろ》、甘湯沢《あまゆざわ》、兄弟滝《あにおととのたき》、玉簾瀬《たまだれのせ》、小太郎淵《こたろうがぶち》、路《みち》の頭《ほとり》に高きは寺山《てらやま》、低きに人家の在る処、即ち畑下戸《はたおり》。
第 二 章
一村十二戸、温泉は五箇所に涌《わ》きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方《あた》りて箒川《ははきがわ》の緩《ゆる》く廻《めぐ》れる磧《かはら》に臨み、俯《ふ》しては、水石《すいせき》の※[#「※」は「鄰−おおざと+(巛の波が2本)」、406−7]々《りんりん》たるを弄《もてあそ》び、仰げば西に、富士、喜十六《きじゆうろく》の翠巒《すいらん》と対して、清風座に満ち、袖《そで》の沢を落来《おちく》る流は、二十丈の絶壁に懸りて、素※[#「※」は「糸+(賺−貝)」、406−8]《ねりぎぬ》を垂れたる如き吉井滝《よしいのたき》あり。
前へ
次へ
全354ページ中296ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング