るなり。
我《われ》未《いま》だ甞《かつ》て見ざりつる絶壁! 危《あやふ》しとも、可恐《おそろ》しとも、夢ならずして争《いかで》か飛下り得べき。又この人並《ひとなみ》ならぬ雲雀骨《ひばりぼね》の粉微塵《こなみじん》に散つて失《う》せざりしこそ、洵《まこと》に夢なりけれと、身柱《ちりけ》冷《ひやや》かに瞳《ひとみ》を凝《こら》す彼の傍《かたはら》より、これこそ名にし負ふ天狗巌《てんぐいわ》、と為《し》たり貌《がほ》にも車夫は案内《あない》す。
貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼《おそ》れつつ立尽せり。
既に如此《かくのごと》くなれば、怪は愈《いよい》よ怪に、或《あるひ》は夢中に見たりし踪《あと》の猶《なほ》着々《ちやくちやく》活現し来《きた》りて、飽くまで我を脅《おびやか》さざれば休《や》まざらんと為るにあらずや、と彼は胸安からずも足に信《まか》せて、かの巌《いはほ》の頭上に聳《そび》ゆる辺《あたり》に到れば、谿《たに》急に激折して、水これが為に鼓怒《こど》し、咆哮《ほうこう》し、噴薄|激盪《げきとう》して、奔馬《ほんば》の乱れ競《きそ》ふが如し。この乱流の間に横《よこた》はりて高さ二丈に余り、その頂《いただき》は平《たひらか》に濶《ひろが》りて、寛《ゆたか》に百人を立たしむべき大磐石《だいばんじやく》、風雨に歳経《としふ》る膚《はだへ》は死灰《しかい》の色を成して、鱗《うろこ》も添はず、毛も生ひざれど、状《かたち》可恐《おそろ》しげに蹲《うづくま》りて、老木の蔭を負ひ、急湍《きゆうたん》の浪《なみ》に漬《ひた》りて、夜な夜な天狗巌の魔風《まふう》に誘はれて吼《ほ》えもしぬべき怪しの物なり。
その古《いにしへ》蒲生飛騨守氏郷《がもうひだのかみうじさと》この処に野立《のだち》せし事有るに因《よ》りて、野立石《のだちいし》とは申す、と例のが説出《ときいだ》すを、貫一は頷《うなづ》きつつ、目を放たず打眺《うちなが》めて、独り窃《ひそか》に舌を巻くのみ。
彼は実《げ》に壑間《たにま》の宮を尋ぬる時、この大石《たいせき》を眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。
又は流るる宮を追ひて、道無きに困《くるし》める折、左右には水深く、崖高く、前には攀《よ》づべからざる石の塞《ふさが》りたるを、攀《よ》ぢて半《なかば》に到りて進退|谷《きはま》りつ
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