何《いか》に我は嬉《うれし》からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易《か》へて、その楽《たのしみ》は深かるべきを。さては出行《いでゆ》きし恨も忘られて、二夜三夜《ふたよみよ》は遠《とほざ》かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。
 彼はその身の卒《にはか》に出行《いでゆ》きしを、如何《いか》に本意無《ほいな》く我の思ふらんかは能《よ》く知るべきに。それを知らば一筆《ひとふで》書きて、など我を慰めんとは為《せ》ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐《いと》しと思へる人の何故《なにゆゑ》にさは為《せ》ざるにやあらん。かくまでに情篤《なさけあつ》からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽《たちま》ちその事を忘るべき吾《われ》に復《かへ》れり。
「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」
 笑ふにもあらず、顰《ひそ》むにもあらず、稍《やや》自ら嘲《あざ》むに似たる隆三の顔は、燈火《ともしび》に照されて、常には見ざる異《あやし》き相を顕《あらは》せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。
「はあ、どういふ御話ですか」
 彼は長き髯《ひげ》を忙《せはし》く揉《も》みては、又|頤《おとがひ》の辺《あたり》より徐《しづか》に撫下《なでおろ》して、先《まづ》打出《うちいだ》さん語《ことば》を案じたり。
「お前の一身上の事に就《つ》いてだがの」
 纔《わづか》にかく言ひしのみにて、彼は又|遅《ためら》ひぬ、その髯《ひげ》は虻《あぶ》に苦しむ馬の尾のやうに揮《ふる》はれつつ、
「いよいよお前も今年の卒業だつたの」
 貫一は遽《にはか》に敬はるる心地して自《おのづ》と膝《ひざ》を正せり。
「で、私《わし》もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様《おとつさん》に対して恩返《おんがへし》も出来たやうな訳、就いてはお前も益《ますます》勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為《さ》せて、指折の人物に為《し》たいと考へてゐるくらゐ、未《ま》だ未だこれから両肌《りようはだ》を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」
 これを聞《き》ける貫一は鉄繩《てつじよう》をもて縛
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