》つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺《どちら》へいらつしやいましたらう!」
「那裡《あちら》にもゐらつしやいませんの!」
「さやうなので御座いますよ」
老婢はここを倉皇《とつかは》起ちて、満枝が前に、
「此方《こちら》へもいらつしやいませんで御座いますか」
「何が」
「あの、那裡《あちら》にもゐらつしやいませんので御座いますが」
「旦那様が? どうして」
「今し方|這裡《こちら》へ出てお在《いで》になつたのださうで御座います」
「嘘《うそ》、嘘ですよ」
「いいえ、那裡《あちら》にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」
「嘘ですよ」
「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」
「だつて、此方《こちら》へお出《いで》なさりは為ないぢやありませんか」
「ですから、まあ、何方《どつち》へいらつしやつたのかと思ひまして……」
「那裡《あちら》にきつと隠れてでもお在《いで》なのですよ」
「貴方、そんな事が御座いますものですか」
「どうだか知れはしません」
「はてね、まあ。お手水《てうづ》ですかしらん」
随処《そこら》尋ねんとて彼は又|倉皇《とつかは》起ちぬ。
有効無《ありがひな》きこの侵辱《はづかしめ》に遭《あ》へる吾身《わがみ》は如何《いか》にせん、と満枝は無念の遣《や》る方無さに色を変へながら、些《ちと》も騒ぎ惑はずして、知りつつ食《は》みし毒の験《しるし》を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂《いは》れず窃《ひそか》に苦めり。宮はその人の遁《のが》れ去りしこそ頼《たのみ》の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報《むくい》は悲くも何時まで儚《はかな》きこの身ならんと、打俯《うちふ》し、打仰ぎて、太息《ためいき》※[#「※」は「口+句」、360−4]《つ》くのみ。
颯《さ》と空の昏《くら》み行く時、軒打つ雨は漸《やうや》く密なり。
戸棚《とだな》、押入《おしいれ》の外《ほか》捜さざる処もあらざりしに、終《つひ》に主《あるじ》を見出《みいだ》さざる老婢は希有《けう》なる貌《かほ》して又|子亭《はなれ》に入来《いりきた》れり。
「何方《どちら》にもゐらつしやいませんで御座いますが……」
「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」
「さやうで御座います
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