か、出《で》養生より内《うち》養生の方が楽だ。何か旨《うま》い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」
貫一は着更《きか》へんとて書斎に還りぬ。宮の遺《のこ》したる筆の蹟《あと》などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便《たより》あらんと思飜《おもひかへ》せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来《かへりきた》れるは、心の痩《や》するばかり美き俤《おもかげ》に饑《う》ゑて帰来れるなり。彼は空《むなし》く饑ゑたる心を抱《いだ》きて慰むべくもあらぬ机に向へり。
「実に水臭いな。幾許《いくら》急いで出掛けたつて、何とか一言《ひとこと》ぐらゐ言遺《いひお》いて行《い》きさうなものぢやないか。一寸《ちよつと》其処《そこ》へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始《はじめ》に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日《あした》行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別《わかれ》には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。
女と云ふ者は一体男よりは情が濃《こまやか》であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈《まさか》にあの人が愛してをらんとは考へられん。又|万々《ばんばん》そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂《いはゆる》『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為《せゐ》か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向《かたむき》は有《も》つてゐたけれど、今のやうに太甚《はなはだし》くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更《なほさら》でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆《ほとん》ど……殆どではない、全くだ、全く溺《おぼ》れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!
これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤《あつ》くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随
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